秀吉は天正15(1587)年6月18日に「バテレン追放令」を制定しているが、その僅か5年後の1592年〜1593年・1597年が文禄慶長の役
所謂、秀吉の朝鮮出兵である。
この出兵の動機は【断定し難い歴史上の謎】とされており、次に挙げる12の説が混在する。
- ⒈鶴松死亡説(鬱憤説)
- ⒉功名心説(好戦説/征服欲説)
- ⒊動乱外転説
- ⒋領土拡張説
- ⒌勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)
- ⒍国内集権化説(際限なき軍役説)
- ⒎国内統一策の延長説
- ⒏東アジア新秩序説
- ⒐キリシタン諸侯排斥説
- 10.元寇復讐説
- 11.朝鮮属国説(秀吉弁護説)
- 12.スペイン脅威説
北島万次著
『秀吉の朝鮮侵略と民衆』2012年刊
説明
日本では「文禄・慶長の役」と呼ばれてきた二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略は、後世の朝鮮観に大きな影響を与えた事件であった。秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか。その構想と李舜臣による亀甲船の戦いなど戦争の実態をたどりながら、朝鮮水軍の船漕ぎや朝鮮人となった日本人など日朝両国民衆の姿を描きだす。
日本を加害国との視点から『朝鮮侵略』と表現する傾向が見られるが、その代表例である。
このように、秀吉の朝鮮出兵と耳塚は後の朝鮮併合に植民地支配の被害国の意味合いを強調する為の必須アイテムとして利用、改竄されている気がしてならない。
つまり、『日本が加害国』の歴史認識構築の為の都合のよい解釈となっていないかとの疑義があるのだ。
まずこの耳塚であるが、朝鮮および明兵の戦死者の耳や鼻を弔ったもので、"2万人"分が埋められているという。
文禄慶長の役の犠牲者数は
日本側21900〜50000
明、朝鮮側 数十万人とあり、
ひょっとして耳塚に埋められているのは日本人の戦死者なのではないだろうか。
秀吉が1587年バテレン追放令を制定、天下統一したのが、1590年その翌年に弟の秀長、後継者の鶴松が、相次いで病死し、翌92年から文禄の役である。
朝鮮との戦争は1419年李氏朝鮮が対馬に侵略した時以来であり、因果関係は考えにくい。
しかし、国防の観点から見れば、12.スペインの脅威説が最も有力な説であり、多くの日本人が奴隷として売られたり、フィリピンに総督府を置いて明、朝鮮経由での侵略を警戒していたことが出兵の動機に他ならないのである。
従って12もの動機を混在させ、歴史を決着させないことが、反日的歴史認識へ誘導する道を意図的に残しているというのが私の説であるのだ。
日本は16万の軍勢で26万と戦うのである。一々敵の耳や鼻を戦果として持ち帰るだろうか
味方の戦死者を弔うためと考えるのが最も合点が行くのである。