昭和三十年己斐西本町善法寺で、大量の原爆死没者の遺骨が発見された。発見されたと言うより大事に保管されていたと言うべきであろう。 なぜならば全て氏名の判別がつくもので、白木の箱に収められていた。
私が生まれ育ったのは、己斐西中町、善法寺は、己斐西本町。山陽本線と広島電鉄宮島線を隔てただけだ、その距離100m。しかし、道のりは300m位でよく末の弟を連れて境内に遊びに行った所である。私のすぐ上の姉は、昭和十九年三月三歳で肺炎にてこの世を去り、親より早く墓を建てるものでは無いの迷信から遺骨をこの寺に預けけられていた。その保管されていた場所は仏像の後ろに何段も棚があり、そこに並べられていた。命日には、お寺参りをした記憶があり、姉の遺骨と共に多くの遺骨が預けられていたのを覚えている。今思えばそれが原爆犠牲者の遺骨であったのである。
私が小学校三年生の時、四軒隣りに、板金屋さんが越してきた。優しいご主人で、戦争中は青森の部隊に居たそうで、スキーの上手な方であった。そこにはかなり年上のお兄さんがおいでになり、私と同年の女の子が居たが、あまりにも年が離れていたので、かえって親しみ易かった。そのお兄さんは、広島二中を卒業されていたが、 原爆の日は腹痛がひどく、当時住んでおられた三條本町の自宅で被爆されたそうである。その家が手狭に成ったので、引っ越してこられた。その家からは、善法寺が見通せた。その家族には、今一人娘さんが居られたが、学徒動員で天満町付近の建物疎開作業中に被爆し、そのまま行方がわからなかった。
その事件が起こったのは夏やすみであったから八月のことであったろう。その家族の娘さんの遺骨が見つかったと、市役所の職員が知らせてきた。その遺骨は善法寺にあったのである。
今考えると、不思議でも何でもない。天満町から原子爆弾で火災が発生すれば、被災者の逃げる方向は、新己斐橋を渡り、己斐小学校に逃げるのが、一番安全な場所に逃げる方法なのだ。
かくしてその子は、己斐小学校に逃げ、誰にも見取られること無くなくなったのであろう。たた十年後に、自分の両親の元に返れる何か名前を示す物を持っていたのであろう。その日、私の父が中心になり、葬儀のお手伝いをした。町内の皆は「子供さんが両親を己斐に呼んだのだろう」と話していた事を思い出す。
因みにその女の子のお兄さんの同級生は、中島町今の平和公園辺りの建物疎開で全員即死した。
写真は二中(現、観音中学校、高等学校)の慰霊碑である。当時の作業場所を見つめるがごとく、たっている。
周りの木々で今年も多くのせみが、霊を慰めるがごとく鳴いている。 合掌。