今月二日、「吉永小百合」DVDの今月号「愛と死の記録」を手に入れて、この号だけは未開封にしようと思い、一夜を過ごしたが未明三時に目が覚め、封を切ってしまった。それから毎朝三時になると目が覚める。一時間と少々、涙の中で過ごし始めて今日で幾日になるのだろうか。
渡哲也演じる「三原幸雄」。「再生不良性貧血」で再び倒れ命長らへる事は無かった。私も同じ病気で、昭和三十七年五月に倒れた。その時一度死を覚悟した。しかし死神に嫌われたらしい。その後今日まで、五十年の間「へそ曲がり」と呼ばれ生きながらえている。小学校の同じクラスの女の子は、日大芸術学部を卒業し、熱烈な恋愛の後に結婚したが、昭和四十四年生まれたばかりの女の子の一歳の誕生日を見ることなく他界した。彼女もまた、「被爆者」であった。「吉永小百合」に何処か似ていた。昭和四十年の冬休み、帰郷してきた彼女は、「シクラメン」の鉢植えを持って我が家に遣ってきた。クリスマスの日であったことを鮮明に覚えている。東京での下宿先をお世話した関係から、帰郷するとよく遣ってきたが、その時は卒業したら結婚するとつもりだと幸せそうに話していた。
画面に出てくる景色は全て私の中では「セピア」色である。大洲から比治山側にかかる「平和橋」今は廃線になった国鉄宇品線、この線路を走る列車によって、日露戦争以来、幾多の兵士が運ばれ、宇品港から祖国を後にして再び帰ることが無かった。
その列車越しに抱きあう、「幸雄と和江」の姿。この映画がこうした歴史認識の中で描かれている事を、いまさらながらこの監督の素晴らしさを思わずには居られない。しかしそうした広島の町の風景一つ一つが、今や歴史的遺産というべきだろう。
原爆病院は、中、高等学校時代の自転車通学路にあり、校門から徒歩で十分。この先の鷹野橋商店街の入り口に交番があり、私のクラスメイト三人が自転車に相乗りしていて止められた。
警官曰く、「二人乗りはいかん直ぐ降りなさい。」 クラスメイト曰く、「三人乗りじゃ」
この一言で「家庭裁判所」送りになった。「公務執行妨害」 しかしこの三人、一躍学校の英雄になった。官憲に抵抗した「英雄」である。私の母校はこうした事には寛大であった。何のお咎めも無かった。
「和江」が「原爆の子の像」を見上げながら、「幸雄」の名前を呼ぶ場面に成ると、どうしても涙が溢れてくる。
恋愛すらも経験する事も無く、一瞬にして地上から抹殺された子供達を思う時、涙が溢れてくる。私は幸せな方だと思い始めてしまうのだ。
真実はそうではない。あの日私を含めた全ての被爆者が苦悩の中に、いや全ての人間が一瞬にして、苦悩の中に突き落とされたのだ。
今我々が「福島」の現実に突き当たり、事実から目を逸らすのではなく、見据えなくては為らない。
この映画は、昭和四十一年を遡る事四年、昭和三十七年、広島で現実に起きた若い女性の「後追い自殺」が基にあることも知っていただきたい。
私はその新聞記事を、大学病院の被爆者病棟のベットの中で読んだ。「中国新聞」の三面に報じられていた事を今でも覚えている。