今朝も三時に目が覚めた。 TVのスイッチをいれる。 DVDを入れる。 「愛と死の記録」である。
二人が互いに名乗り合う場面は、「バンビ」という喫茶店という設定になっているが、実際の撮影は、広島市の「臍」 八丁堀交差点の東角にあった、「もん」という喫茶店の二階である。
昭和四十年代、私もよく利用した。 OLの多くが、八丁堀から紙屋町交差点にかけて勤務していたから、デイトの待ち合わせの格好の店であった。 今はもうない。
窓越しに、当時の八丁堀の喧騒が映し出されている。 しかしこの場所も昭和二十年八月六日、地獄となった場所である。
「峠三吉の詩碑」
ちちをかえせ
ははをかえせ
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場面は、「三原 幸雄」の未来を暗示させる。 それは現実のものとなって和恵をおそう。
私が産まれ育った、広島市の西の玄関口 「己斐」の街の北東のはずれに、女子名門校 「清心学園」が存在する。 修道院と教会が併設され、修道院の東側の壁には、「マリア」像が佇む。その真下は、嘗て「キリシタン処刑の地」であった。
しかしその「マリア像」は、広島の街をも、じっと見つめ続けている。「被爆者」の安らかな生活を願っているようにも見える。 かつてこの場所は、病に絶望した「被爆者」や、人生に疲れて 「死」を選んだ人たちの最後にやってくる場所であった。
私はこの場所で、子供の頃から多くの「死」を見てきた。 国鉄山陽本線が、走っていたからである。
この場所から、北西に1km 私の小学生生活の場であった、 「己斐小学校」は昭和二十年八月六日、五千人を超える被爆者で埋めつくされたそうである。 その中でこの場を人生の最後の場となった人々は、少なくとも二千七百人を上回る。 その内、二千二百人は、昭和二十六年八月の発掘調査まで、校庭の土の中で眠っていた。
この人々は、「自らの死」の上を走り回る子供たちの姿をどんな思いで見ていたのであろうか。 走り回っていた子供の一人が私である。