藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」  軍都広島を知って「愛と死の記録」を見て欲しい。

2013-02-10 18:55:52 | 社会・経済

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 「広島」と言えば、「平和文化都市」。 世界最初の、「原爆被爆都市」のイメージしか皆さんは思い浮かばないと思う。 原爆が投下された理由は、この街の運命にあった事はあまり気付かれないだろう。

日清戦争以来、広島は「軍都」として拡大してきた。 日清戦争以来、祖国を離れ戦場に赴くとき必ずや、広島の宇品港を経由した。

戦場で傷つき帰国する時もまた、この広島宇品港を経由していた。 終戦近くになり、転戦の経由地は数多く作られたらしいが、基本的に広島湾がその任を担ってきた。

宇品港から見える似島は、安芸の小富士と呼ばれる。 ここに軍専用の検疫所がかつてあった。 戦後は、原爆孤児の収容所として使用された。 似島検疫所は、外地から帰国した兵隊が検疫を受けたところである。

理由は広島湾の隣には、軍港「呉」があり江田島には、「海軍兵学校」が明治の時より存在した。 広島は第五師団の本拠地であり、西日本最強の陸軍が配置され、西日本一円を管轄する第二総軍司令部が二葉の里(東練兵場)に、置かれていた。 加えて、日本最大の中国憲兵隊が存在し、中国本土でのスパイ行為や、中国大陸の軍関係者や日本人、中国人、朝鮮人に、目を光らせていたのである。。

軍都広島と軍港呉を結ぶために、国道31号線は作られ、山陽本線で広島まで運ばれた軍需品運搬の為に、呉線は建設された。 呉線は単線であるがそのまま、山陽本線三原駅まで伸びている。軍は単線で十分であったのだ。 軍港呉へ物資や海軍兵員の運搬は西から運ぶ時は、広島で分岐し、東からの兵員や物資は三原から分岐して軍港呉へ運ばれた。

この呉は、戦艦「大和」や「長門」を始め、日本の主力軍艦の基地であった。

第五師団の正面入口は、紙屋町と呼ばれる当時は、 丁字交差点の真ん前であった。 紙屋町を少し西に歩き、原爆ドームの北側が、護国神社の正面、八丁堀交差点を北に突き当たると、「東練兵場」その途中に五師団の京口門口が有った。

入隊する時は、正面から。 除隊する時は、京口門と決められていたらしい 。家族との面会や、休暇の時には、京口門が出入口と決められていた。

八丁堀を南に下ると、「御幸橋」に到達し、橋を渡ると右折して宇品へと続く。 この橋は、日清戦争時、大本営が広島に置かれた時に、軍艦三笠で宇品港まで来た明治天皇が、唯一渡る川の上に架けられたのである。 天皇陛下の御成を表す「みゆき」なのである。

太田川に架かる橋は幾つ有るのか、広島へ生を受けて以来数へたことがない。 おそらく大阪より多いいのではなかろうか。

 現在は太田川の流れは六本に分かれているが、昭和40年後期まで七本であった。 本流に架かる、橋の最上流にかかる橋が三篠橋である。 三篠橋を西から東に進むと、右手が西練兵場、左側には軍関係の学校や施設が並び、その先の常盤橋を渡ると、東練兵場となる。 常盤橋の上流に、小さな吊り橋がある。 工兵隊が作ったので、工兵橋と呼ばれている。 この橋を挟んで嘗ては、工兵隊「第五連隊」が駐屯していた。

昨日は、早朝三時から二度、「愛と死の記録」を見て、その後TVで山口百恵の「風たちぬ」を見た。 それから、録画していた「戦争と平和」を見た。

その中で「愛と死の記録」のシナリオを書かれた作者の意図が初めて見えてきた。

この映画で交わされる会話一言一言が、その背景が、明治以来の軍国主義に対する批判に満ちているのである。

今日は一日、この時間までTVの画面を見ていない。 三時に目は覚めてが、再び眠りの中に陥り目覚めたのは昼時間近くであった。

軍都広島の地図をクリックして、拡大し御覧頂きたい。できれば其の後に、「愛と死の記録」をご覧いただきたい。 見方が変わるであろう。

コメント (2)
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