今日は何も書く気力がなく、暑さに参っていました。
しかし先ほど、
http://pub.ne.jp/20071203MOTOTO/ みどりさんのブログを拝見し、どうしても書かなければ成らない気持ちが起こりました。写真の「火葬場に立つ少年」の姿を見たからです。
私の母校、広島市立己斐(こい)小学校(当時は国民学校)は、原爆による消失を免れた数少ない学校でした。しかし、生徒や、教師の中には負傷した者も多く居ました。その多くの負傷は、爆風によるガラスの破片によるものだったようです。(実際の上級生の被爆状況は、別の機会に記載したいと思っています)
校舎は倒壊を免れて、被爆者の救護所となり、地獄のような有様であったようです。連日多くの死者が出る為に、己斐町の火葬場では処理しきれず、校庭に溝を掘り、教室の腰板を壊し、死者を火葬しました。その結果、私が入学した時分、昭和27年当時も、強い雨が降ると、校庭から遺骨が出てきました。
出てきた遺骨は、講堂の裏に掘られた穴に入れておかれました。子供たちは当時恐怖感などなく、当たり前のようにそれを行っていました。なぜそのような事になったのか。
答えは簡単でした。家族が全員死亡しているか、又は一家の主人が戦場におり、家族の安否など確認できなかったのです。
その結果、多くの遺骨が眠ったままになりました。中には、氏名など確認されたものも多く有りましたが、遺骨の引き取り手が見つからない事の方が多かったようです。
現在も平和公園に眠る、引き取り手の居ない遺骨名簿が公開されていますが、その数は減ることが有りません。
昭和30年の「夏休み」に学校が、立ち入り禁止になりました。例年は、8月6日に全校生徒による原爆犠牲者慰霊祭を学校独自に行っていましたが、中止となりました。
遺骨の発掘作業が行われたのです。その後、雨が降っても遺骨が出てくることは無くなりました。
その己斐小学校の校庭を取り囲むように、桜が植えられていましたが、広島市内有数の、桜の見所でした。誰言うでもなく「死体の養分できれいに咲く」と言っていましたが、あながち間違いでは無かったようです。と言うのも、あまりにも多くの死者に対し、教室の腰板などでは火葬が間に合わなく、暑い夏の間、死体は一時的に、桜の木下の木陰に置かれていたそうです。
戦争が引き起こす悲劇とは、計り知れないものが存在するのだと、この年になり強く感じるようになりました。
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