移動劇団「桜隊」は、原子爆弾の洗礼を受けた、唯一の「職業演劇集団」である。
吉永小百合を語る前に、この劇団について私の知る限りのことを、この画面上で皆さんに知っていただきかった。
私が小学生の頃、八丁堀と言われる繁華街の真ん中に、「福屋」百貨店があり、その裏手から南に向けて堀川、と呼ばれるドブ川が流れていた。嘗ての広島城の外堀からの排水路であった。因みに、八丁堀は嘗ては外堀であり、それを埋め立てて広島のメイン通りとなっていた。この堀川と呼ばれたドブ川は、昭和30年台後半に埋め立てられ、現在は平和大通りから北側を堀川通り、
南側を並木通りと呼んでいる。
この川筋一帯を新川場町と呼び習わしていた。その 片隅に標識というか白いペンキで塗られた杭が一本立っていて、いつも花が手向けられていた。
これが何であるかは、私が中学一年生に成るまで知ることは無かった。この木柱の碑が「丸山定夫・園井 恵子 追慕の碑」という物であることを知ったのは偶然からである。
当時放送部に所属していた私は、交流の有った女子私立中学校に行く近道として通りかかると、この碑の周りの草むしりをされている人に出会い、その謂れを聞くことに成った。
その方は、中国新聞の芸能部の方で、嘗て第二次世界大戦中に組織された、移動演劇隊「桜隊」という演劇集団に所属していた方たちが、原爆により犠牲となられたのを慰霊する為に、「桜隊」旧事務所前にこの碑を中国新聞の同士で建てたことを教えてくれた。
現在の地に移ってきたのは、この堀川と呼ばれたドブ川が埋め立てられ、また1955年の第一回原水爆禁止世界大会の会場で慰霊碑の建設が呼びかけられ、「桜隊」の前身である「苦楽座」のメンバーが中心となり建設された。
原子爆弾で唯一被害を受けた職業演劇集団である。
写真をクリックしてみてください。この碑の建設までの経緯が解り易く書かれています。
この桜隊の関係者には、綺羅星のごとく著名な俳優がそろっている。佐野浅夫、多々良純、徳川無声、藤原鎌足等々などです。
私の住む町内にも、一組の家族が避難してきています。「飯館村」からと聞きましたが、記憶力の悪い私には、福島県の町村名が聞きなれづ、その場所がよく理解できていません。しかし、地元の「大林愛林会」とゆう組織が、あげて支援をしているようです。広島市安佐北区大林という地区は、戦国大名「毛利」氏の重臣「吉川」氏の地盤で、大林小学校も、戦前この「吉川」氏の住宅が提供され、建設されて、伝統的な「奉仕」精神を持つ不思議な地域なのです。それを知ったのは、その小学校の講堂を取り壊し、体育館を建てたとき、天井裏から、小学校建設に至った経過を記載した、「棟板」だ出てきて知りました。偶然私が、現場責任者でこの工事をしたため発見しました。現在も小学校の歴史を語る重要な資料として、校長室に展示してあります。それが縁で、この家族のことを知り、支援活動の一端を手伝わせていただいています。因みに、歌手の「吉川浩二」はこの子孫にあたり、私の母校の後輩です。私の同期に、歌手の「吉田卓郎」がいます。