不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

 藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」  私の授業放棄事件

2013-02-01 02:24:00 | 社会・経済

 小学校の同級生から突然電話があった。学校や、スポーツ団体の暴力事件をTVで見ていて、私を思い出して電話したという。「?」最初はそう思ったが、彼の話を聞いていて思い出した。担任の体罰に対して、授業放棄事件を、私が起こしたことがあった。小学校3年生の六月のことである。実に五十七年も前のことである。

 事の起こりは、6年生の担任の一人が急死された。5月のことであった。急遽私たちの担任が、その後を引き継がれ、その後任に満州から引き揚げてこられた後、結核の療養をされていた先生が、病気回復して私達の担任として着任された。その先生の特徴は、手に「根鞭」(ねぶち)を携えていたことである。「根鞭」とは、細い竹の根でできており、凹凸があり、叩かれると痛いらしい。「痛いらしい」としか書きようがない。私自身が叩かれたことがなかったからである。しかしその先生は、板書を示す時も、はたまた宿題を忘れた者にも、一発頭のてっぺんをそれで叩くのである。ひどく叩くのではない。しかし痛いらしい。みんな頭を抱えて、顔を歪める。その顔を見るのが私は嫌であった。

 一ヶ月は我慢したが、六月の月曜日の授業中、我慢できなくなり教科書を全てランドセルに入れて、先生に抗議した。「「根鞭」でみんなを叩くのをやめてください。そうでないのなら、明日から学校に来ません。」私の地声は大きい。学芸会でも講堂の後ろまで声が通った。それにしても今考えるとよく言えたものである。

 返事がないので私はサッサと教室を出てしまった。そうすると大変な事態になってしまった。クラスの大半の子供が、私と同じ行動を取ったのだ。私の声は隣の教室まで聞こえていたらしい。それだけでなく、校長室までも聞こえたらしい。隣のクラスの担任や、校長先生まで出てきて大騒動になった。

 私は校長室に連れて行かれ、校長から事の顛末を聞かれた。私は自分の考えをそのまま校長に伝えた。その日の授業は中止となって、給食だけ食べてかえったように記憶している。校長からは全員に、明日は必ず登校する様に伝えられたように記憶している。誰が卦伝したのか、下校時には街中にこの話が伝わっていた。同級生の魚屋のお父さんが、「よく言ってくれた」と言って、鰯をくれたことも思い出した。その同級生はよく叩かれていた一人ではあった。

 翌日登校すると、先生の手には「根鞭」は無かった。しかしそれから三月までの十ヶ月の間、生徒と先生の関係はギクシャクし、その年度が終わると共に、クラスの再編が行われ、それと共にかの先生は辞職された。

 今考えると、どうもその頃から私の臍は曲がっていたようである。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 深山 霞の「霞的心」  柔... | トップ | 深山 霞の「霞的心」  世... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 へそ曲りというより人一倍正義感があったのでし... (みどり)
2013-02-01 22:15:38
 へそ曲りというより人一倍正義感があったのでしょう。
今の時代にも、勇気のある子どもも居ると思うのですが、激しく抵抗するより不登校になり引きこもるケースが増えていると聞いております。
多くの子ども達に、もっと伸び伸びした学校生活を送らせたいと切望致します。
返信する
みどり様へ (深山 霞)
2013-02-02 05:18:58
みどり様へ
お久しぶりです。
この歳になり感じているのは、小学校一年生、二年生、三年生の五月まで担任であった「岡村 実」先生と、父から受けた薫陶が、私の人生を支えてくれたことを感謝しています。
特に岡村先生は、私の全てを受け入れて「知育」「徳育」を与えていただきました。先生は元NHKのアナウンサーでしたが、教育の重要性を感じられ、昭和二十五年に教員に転職された方で、戦後の貧しい時代に、常に子供の「保護者」に徹した教育方針を貫かれていました。特に「被差別」の子供の人権には配慮された方で、私の父と同じ感性をお持ちの方でした。
私が六年間過ごした「己斐小学校」には、今一人女性の先生で、「向井先生」と言われる先生がおいでになり、この先生は一生独身でしたが、戦中戦後の混乱期の中で、朝食を食べずに登校する教え子に、毎朝「麦飯のおにぎり」を与えられ、その教え子達で「向井会」という会が作られ、現在もその徳を偲んでおられます。
「岡村先生」は、私が授業放棄事件を起こした年の九月、突然に他界されました。その葬儀に際し三年生の私に弔辞を読むよう、かの水野校長が配慮してくれました。
その後成人し、「青年活動」で教育委員会に出入りする中で、定年退職後、嘱託で社会教育に携わっておいでになった「向井先生」と再会し、昭和四十四年突然他界されるまでの四年間は、親子同然のお付き合いをしていただき、その人間性に触れることができました。私は不思議と、常に良い師に恵まれてきました。その恩返しが少しでも出来ればと、「石綿被害者救済活動」をしているのです。あの世で笑顔で先生たちと再会できるように。
返信する

コメントを投稿

社会・経済」カテゴリの最新記事