「加茂岩倉遺跡」の管理棟ですばらしい方に出会った。
この遺跡の管理者である。 年齢は私より高齢であるが、常ににこやかな対応は心和ませていただいた。 この遺跡の話を色々しているうちに、「三角縁神獣鏡」の話に及んだ。
昭和48年、加茂町の小さな神社の境内に存在した古墳から、「景初三年」の記述がある「三角縁神獣鏡」が出土したと言う当時の報道を思い出した。 その古墳がこの「加茂岩倉遺跡」の南に位置する「神原神社」の境内に有ったのだそうである。
今朝通った道から少し旧道に入った、小さな神社だそうである。 聞いたからには行かざるを得ない。 来た道を後戻り、考えてみるとこの「加茂岩倉遺跡」を中心に半径1.5km以内に南北に北から、「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」「神原神社古墳」と一列に並んでいる事になる。 南から「三角縁神獣鏡」「銅鐸」「銅剣、銅鐸、銅矛」と北へと並び、そのなお北に「出雲大社」と繋がる。
この小さな神原神社の裏には古墳が存在することは知られていたようである。
斐伊川の嘗ての支流現在の「赤川」の護岸改修拡幅工事に伴う発掘調査で世紀の発見がされた。
「景初三年」の記述の銅鏡が発見されたのである。 世に言う「卑弥呼の銅鏡」と呼ばれる二枚目の発見であった。この小さな神社の境内に、日本の古代史に一石を投じる埋設物があろう事を誰が想像したであろうか。
この出雲の地を、車で移動すると遺跡に突き当たる。
今回どうしても見たかった一つが「八重垣神社」の壁画であった。
和歌の発祥の地であり、「妻込」のこの地には、若き女性のパワースポットらしく大変な賑わいであった。この地に行き着くまでは正に「珍道中」。 私の計画通りに走っていればよかったが、「尾道松江高速道路」が出来て、新しい道路案内標識が取り付けてあったり、新しい広域農道が出来ていたり。 これが曲者であった。 途中から突然案内標識が無くなる。 一度車を止めて道順を尋ねてみたが、かえって解らなくなった。 私の計画していた地点まで帰って頭の中に在る道順で行くと、いとも簡単に「八重垣神社」に着いた。
いよいよ「島根県立古代出雲博物館」に向かって国道九号線ならぬ裏道を走って行った。 その目的は・・・・・。
そうです。 宍道湖の北側に広がる、古代から少しずつ広げられてきた干拓地の北風を防ぐ為の防風林を持つ農家の景色が見たかったのです。
出雲の平田地区と呼ばれ多くの家が築地松に囲まれている。
「八雲立つ出雲」の国のシンボルである。
こうした 寄り道を繰り返し、この博物館の前に立ったのは三時過ぎであった。
いよいよ数々の国宝との対面であるが、その中でも「出雲大社」の古代神殿の柱が出土して、神話として語られてきた高さ48mの神殿が、現実味を示してくれるであろう「三本の古代柱」が一番の期待をしている展示物である。
その柱の写真は省略する。 TVで多く報道されたので皆さん良くご覧になったであろう。
あえて「出雲大社」の復元模型の写真をここに掲載しておく。 この模型は、「鹿島建設」の技術陣が、最新鋭のコンピューターを駆使して得た結論を元に作られた物だそうである。
「震度5」に耐えうると結論を出したそうである。 恐るべき古代人の建設技術である。
この「出雲大社」の復元模型の前では不思議な出会いがありました。その出会いについても近々に報告します。