旧費本銀行広島支店
昭和四十年代後半まで、この建物の正面階段には、原子爆弾投下時に腰を下ろし休んでいた人間の、人型が写真のネガフィルムの様に焼き付けられていた。
終戦と同時に、広島市東部から北部、西部と半円形に走る山陽本線沿いの、3駅の周辺に闇市が立った。広島駅は、呉線、宇品線(戦時中、日本陸軍の多くはこの線を使用し、宇品港から南方や、大陸に兵を送り出していた)、芸備線、山陽本線の基幹駅で、当然に大量の人間が乗り降りする。山陽本線を西に進むと、横川駅で、可部線につながり、旧安佐郡、高田郡の玄関口となり、さらに西に進むと、己斐駅(現西広島駅)と続き、この駅は、広島電鉄宮島線、市内電車の基点であった。
この三駅が、広島では重要な位置を占め、当然に利用客も多く、闇市が形成されるべく条件を満たしていた。無法地帯を取り仕切る人物が自然発生的に現れ、通称「岡組」と呼ばれ、官憲と、GHQと、闇商人との間を遮り、闇取引が出来るように環境を作っていた。その本部を、横川駅に置き、東西の広島駅、己斐駅を取り仕切った。
岡組長の縁戚の何人かを、私の父が原爆直後、周辺の救護所から見つけ出したのが縁で、原爆で職を失った父は、闇米の運搬で食いつないだと言う事があった。私の父の話は後日この場で記述したいと思う。
この「岡組」が、昭和30年代中半まで、広島の暗部を取り仕切った。昭和27年私小学一年生の秋、この「岡組」とGHQの闇物資取締りの米兵との間で、己斐駅前闇市場で銃撃戦が繰り広げられた。「岡組」は、武装していたのである。この事件のときも私は不思議と遭遇したのです。
「パーン」「パーン」「パーン」「パーン」。
何が起きたのか私には理解できませんでした。その時、「タナカ」喫茶店の主人が店から飛び出してきて、私を店の中へ引きずり込んでくれた。
昭和30年代中半、「岡組」組長が亡くなり、その跡目争いが起こった。世に言う「仁義なき戦い」である。
この戦いは、一人のずば抜けた人間と、その行動が理解できない者の集団との間で発生した。「打越組」対「共政会」の抗争の始まりは現在私が住む、旧可部町の旅館「松副荘」から始まった。「松副荘」に宿泊中の「共政会」幹部が、「打越組」に大浴場で襲撃され確か二人が即死状態であったように記憶しているが事実はどうか確たい方は、DVDの「仁義なき戦い」でもご覧ください。そのままの事が、広島を中心に起きたのです。当然この組織の構成員の中には、原爆孤児が多く含まれた。両親をなくし、就職先も無い中で、こういった組織は不幸な人間を吸収して巨大化する。
この抗争は、昭和60年代まで続くが、この抗争が広島の建設土木業界や、政界に及ぼした影響は大きい。近年になり、やっと「暴対法」で少しずつ関係正常化が進んでいるように見えるが、先が見えない「官」対「暴力団」の戦いになっている。
当然に平和運動にも影響を及ぼした。「共政会」は、表面上政治結社を名乗ったからである。
広島では、平和運動が3つに分類され、それがさらに2つに分類される。
まず、左派、中道、右派。このそれぞれが、親「共政会」。 反「共政会」と分けられる。こうした複雑さから市民からは、遊離した平和運動とみられ、金儲けのための「平和運動」と見られがちとなり、行動が難しいのです。広島の平和運動の分裂が、こうした広島の持つ特殊性を根に持ち、起こったことを理解していただきたいと思います。
ただ広島では、長崎伊藤市長のような受難は過去発生しませんでした。ただし、7年前県会議員選挙後、一人の当選議員が襲われました。そして右手の指を切断されましたが、それは個人的恨みであり、政治的背景はありませんでした。
その中で私はいつも、ノンポリです。6グループと対等に話し、対等に行動しています。
福島の原発事故の今後のことが予想できるのです。
それは過去広島、長崎が、社会から受けた差別と同じ事が、起こるでしょう。それは、水俣も同じでした。結婚差別や、就職差別などです。中には組織的差別も存在します。国民保険組合による、被爆者差別です。被爆者の多くは免疫力が低く保険の使用頻度が高いために、入会させると組合の収支が悪化するのです。社会保険組合の中にも、一時期入会を拒否した時期が存在しましたし、大手企業の社会保険組合も又同じように拒否し事がありますが、労働組合からの突き上げで、この問題は解決したように見えましたが、採用時に被爆者が差別されるようになりました。今又、被爆二世に対する差別が潜在的に存在するのではないかと言われています。