28日、講演の取材が終わったので、出先からさかい動物病院に電話を入れた。受話器の向こうでギャンギャン鳴く犬の声がする。カヤだった。
手術は思いのほか大変だったようで、当初は避妊のために卵巣のみを摘出するはずだったのが、卵巣にも子宮にも粒状の腫瘍(先生は「おそらく卵胞のう腫だろう」とおっしゃった)があったため、子宮も全摘することになったという。なので、予定していた時間を大幅に超えたようだ。
カヤが鳴いているのは、麻酔が覚めきらないため思うように動けずに、不安で混乱しているからだと思うと先生。私はカヤの鳴き声がほかの患者に迷惑になることが心配で「ほかに入院している子や治療に来ている子はいませんか」と聞くと「幸いにというか……、誰もいません。少し落ち着けば鳴きやむと思います」と先生がおっしゃったので、ちょっと安心した。
それから帰路を急ぎ、8時過ぎに最寄りの駅から再び先生に電話を入れてみた。とにかく一度見に行って、その時点で今夜どうするか決めることになった。バスや徒歩で家に向かうのがもどかしくタクシーで家に戻ると、すぐに車で動物病院に向かった。
カヤはまだ完全に覚醒していないようだった。それでも私の声が分かったらしく、よぼよぼしながら立ち上がり、私にすり寄ってきた。体を支えきれずうずくまりそうになるのを、ふらつきながら何とか踏ん張っている姿がけなげだった。
酒井先生が摘出したモノを見せて説明してくれた。左側の乳腺には複数の腫瘍があったため、部分的にではなく広くペロっと切り取り、両側の皮膚を寄せて縫い合わせたという。傷口は20センチ以上あるだろう。剥がされた皮膚にぼこぼこした腫瘍が見られた。
「オオタケさんはまた怒るかもしれませんが」と先生が前置きしたので何かと思ったら、顔をしかめて「子宮は、どれだけ酷使されたかというように色が悪かったです」とおっしゃる。カヤを引き取った経緯を話すなかで、私が無責任極まりない悪徳ブリーダーへの怒りを口にしていたので、先生は「また怒るかもしれないけれど」と言ったのである。そうです、いくら怒っても怒り足りません。
先生が言うように確かにカヤの子宮はドドメ色で、卵巣にも子宮にもイクラのような粒状の卵胞のう腫があちこちにあり、見るからに不健康そうな状態だった。
これらを摘出するために全力を尽くしてくれた先生に感謝し、長時間の手術に耐えてくれたカヤに心から労いの言葉をかけた。先生が「ゆっくりと、もう少し点滴を入れてあげたいので11時ごろに迎えに来れますか」と言うので再びいったん家に帰り、ノンアルコールビールで喉を潤し、熱海の駅で買った大好きな駅弁「鯛めし」を食べながら待機していた。
余談だけど、私は子どものときから東華軒の「鯛めし」が好きだった。鯛のそぼろが一面に乗っている「鯛めし」はお箸だと食べにくかったのだけど、新たに木のスプーンが付いていて、いつの間にか進化していたのだった。
さて、トチもブナも避妊手術の後、とても開腹手術をしたとは思えないほど元気(?)で、迎えに行った私にピョンピョン飛びついたり、車にも自分で飛び乗っていたのだが、カヤはそうはいかない。車に載せるにも抱き上げてやらなければならないが、傷口に障らないようにうまく抱き上げられるか、とても不安だった。だいたい犬を抱き上げるという習慣がなかったし。
入院させたほうが無難なのではないかとも思ったのだけど、私がいったん帰ったあと、カヤは私を探していたらしい。うちで引き取って1カ月余り、それほど長いときを過ごしていないのに、カヤは私を頼りにしてくれている。やはり家で安心して寝かせてあげたい。そして、恐る恐る抱き上げ、ごくごく大人しく車を運転し、カヤを家に連れ帰ったのだった。
その夜、カヤは一度も目を覚ますことなく眠り続けた
お気に入りのおもちゃで遊ぶカヤ
カヤの乳腺腫瘍の切除と避妊、右目の毛様体破壊手術は7月28日に行われた。日曜のその日に決めたのは、その日伊豆に取材に行くことになっていたので、それならその日を手術日に当て、酒井先生に預かってもらっていたほうが安心だと思ったからだ。
酒井先生は飼い主が遠方に出かけ、何かあってもすぐに駆け付けられない日を手術日に当てることは避けたいところだろうが、私の責任でお願いすることを理解してくれ、引き受けてくれたのである。
手術日の1週間ほど前のこと、酒井先生から右目に施す処置のリスクについて電話があった。予定している処置は硝子体内ゲンタマイシン注入によるに薬物学的毛様体破壊術で、これまで酒井先生は、施術が容易であり短時間で実施可能であることなどのメリットがあり、飼い主の経済的負担も少ないことから、眼科の専門医に何回かその処置をお願いしてきたし、ご自身も施術してきたそうだ。比較的よく使われていた処置だったので、今回も私にそれを提案してくれたのだった。
ところが、私に提案したあと眼科の専門医から、最近では確実性に欠ける(再発の可能性がある)ということと、腎毒性、肝毒性などが起こりうる可能性があることから、眼科医としては義眼挿入か眼球摘出を勧めていると聞かされたというのだ。
再発に関しても腎毒性、肝毒性に関しても「起こりうる可能性」はかなり低いというが、最近の傾向を知らされたのに知らん顔をしてカヤに処置はできないということで、私に電話をくれたのだ。酒井先生らしい。
いろいろ相談した結果、当初の予定どおり乳腺腫瘍の切除と避妊手術に加え、右目の硝子体内にゲンタマイシンを注入することとなった。
乳腺腫瘍が広範に散らばっていて大きめのものもあるので、その切除に時間がかかりそうだ。全身麻酔の量を気にしなくてはならない。避妊手術は卵巣のみの摘出とはいえ、腫瘍の切除に時間がかかれば卵巣の摘出も速やかに行わなければならないから、なおのこと目の処置は短時間で済む簡便な方法のほうがいい。ゲンタマイシンの注入は処置自体、数十分で済むと言うので、結果その組み合わせになった。
前日念の為、肺への腫瘍の転移がないかレントゲンを撮った。
大丈夫そうだったので、当日朝9時にカヤを先生に預けに行った。取材に出る用意をするためにすぐに帰宅する。自宅に車を走らせながらぼんやりと「これまでもいく度となく犬たちのいのちに対して覚悟しながら家に戻ったなあ」と振り返り、少し泣いた。
手術当日はカヤを入院させるつもりだったが、先生がカヤが帰りたい素振りが見せられるほど麻酔の覚めもよければ、病院で預っておく理由はないというようなことをおっしゃった。それもそうだ。とりあえず出先から何度か電話を入れてみることにした。