思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

男と女、価値観の共有

2005年05月02日 | Weblog
男と女が一緒に暮らして行く、結婚であれ、同棲であれ、セックスフレンドであれ、異性の友人としてのお付き合いであれ、根底に価値観の共有がないと長続きはしないと思う。
共有できなくとも、相手の価値観を認めることが出来ること。
相手のやることすべてに「それはチョッと違うなー」といつも根底から思うなら止めたほうがいい。
個々の事柄について意見の相違から喧嘩をしても、根本の価値観を共有していれば克服できるし、認め合うことが出来る。

価値観は、何をだいじに思うかである。
趣味の一致も、ある種の価値観の一致ではあるが少し違う。
相性がいいということだけでもない。

この世は生きるに値しないと考えるか、生きている限りいろんな事に出会い精一杯生きようと考えるか、である。
正義の側に立っていることを望むか否か、といったこと。
権力を好むか否か、弱者を愛せるか否か、といったこと。
セックスが好きか嫌いか、といったこと。セックスが嫌いな人も意外に多い。
判断の仕方が納得できるものか否か、といったこと。
物事に対処する方法考え方が納得できるものか否か、といったこと。

育った環境が価値観の形成に大いに関係してくる。
生育環境によって複合的に形成されて、微妙な価値観の相違を生む。
欲しいものは何でも手に入った人、苦労しても手に入れられなかった人、そんなことに影響される。

根本において価値観の違う人と暮らすことは不幸である。
毎日がストレスとなる。間違いは早く正す。早く止めたほうがいい。
肉親においても然りであるが、肉親には肉親の情があり逃げられない。

そういえば、ある講座で3分間スピーチというのがあった。40歳前後の女性が母親のことを話していて、母を愛せない理解できないといって泣き出したことがあった。価値観の相違を埋めることが出来ないストレスがそうさせたのだと思う。


自分は何をしたいのか

2005年05月02日 | Weblog
自分は何をしたいのか、本当にやりたいことは何か。
と、いつも考えたり、悩んだりしている人は、実はそんなことを悩んでいる自分の今が本当に好きなのかもしれない。
だから本当にやりたいことは見つけないし着手もしない。

これは自分のことを言っている反省記録だ。
あれをやってみようと思うとき、いろいろの障害をあげつらって、だから出来ないと妙に納得する。人生の大半をそうやって過ごしてきた。
そんな人生を過ごしているお仲間は多分多いと思う。

例えば。
あるサイトで「手作りギターの魅力」というのがあった。手仕事は好きだし、ギターを手作りする詳細な手順とデータ、必要な道具、過去の名品などが載っている。
やってみたーい。残りの人生をかけてもいいー。そこまで思い入れて思う。
だがしかし、我が家はマンションだ。作業場に1部屋当てるのは可能だが、女房は色々言うだろうなー。それに作業するときは騒音で近所に迷惑だろうなー、苦情が来るかもしれない。いい材料といい道具をそろえるのはかなりの投資だ。それに自分はギターの演奏もまともじゃないから、本当にいいギターまで到達できないかもしれない。
もう暫く様子を見よう。
と、万事この調子だ。

本当にそれをやりたいんなら、近所迷惑にならない作業場を別に確保すればいいわけだし、ギターの音色とか響き具合を心配するなら、ギター教室でも通って自分の技を磨き判断力を養えばいい訳だ。だがそこまではやらない。
能力は持っているのだが障害が多すぎる、なんて言い訳を考える。

着手する前にあれこれ悩んでしまう軟弱なハムレット型の典型である。
まずがむしゃらにやってみてから考える人は成長する。

光(太陽光)

2005年05月02日 | Weblog
昨日と打って変わって今日は太陽光がまぶしい。
私にとっては光って大事だなーと思う。光を浴びるのは大好きだが、紫外線の害がどうのこうのといわれると、女性でなくとも気になる。
冬でも我が家は南向きの部屋は長い日差しが部屋の中まで差し込む。
天気の良い日は、裸を光に晒したりあまり人のやりそうも無いことをやったりした。光の中でまどろむのはとても気持ちがいい。

サングラスは外人に多いが、英会話クラスのベンもアンドレアも最近サングラスをかけている。
近くで見ると2人とも目が大きい。光線を目に取り込む量が日本人より多いから眩しさの度合いがが違うのかもしれない。
欧米人は緯度が北の地域が多いので普段は太陽から遠ざかっている。だから光の季節は目を守る必要があるのかとも思うが良くは分からない。

花も木も光を浴びて育つ。
山も日差しと共に緑を増す。光の増加と共に命の躍動が始まる。
奇跡の確率で太陽光線はわが地球に降り注ぎ生命を育んでいる。
50億年をかけて出来上がった奇跡である。
今世紀、地球温暖化とか環境破壊とか、オゾン層の破壊とか、地球の寿命を縮める行為が注目され、マータイさんの「もったいない運動」とか世界規模でその防止策が叫ばれている。

大抵は皆自分が生きている間は問題ないだろうから余り関係ないや、と思っている。何世代も後の子孫のことまで心配する人はいない。自分が生きている間だけ楽しけりゃいいやと考えるのが普通だ。子供と孫の行く末ぐらいまでは考えるか。
しかし、海辺の波打ち際に立って、また山の頂上から雲海の間から谷や町を見下ろす時、あるいは飛行機から美しい海岸線を見る時、美しい地球は守らなければならないという感慨を持たないだろうか。
自分の命も地球と同化して永遠であるような気持ちになることがある。

まだ人類は宇宙に旅立つほどの力は持っていない。
太陽の寿命は後50億年とか記憶しているが、その頃は地球を後にした人類があらゆる銀河に住み着いているかも知れない。
若い頃にSF小説が全盛を極めていた。心のカタルシスにそんなことも想像してみたい。