今度の演劇のある女役2人の回想のセリフの中で、
「私も男はたくさん、男に安らぎを求めても最終的には甘えてこられて…母親じゃないって言うのよ」
「そうそう、男ってカッコつけてるけど、いつも女に甘えて生きてるのよ。男らしい男って会ったことないな」
とある。
いろんな局面で女性が似たようなことを言っているから、そう感じている女が多いのだろうと思う。しかも母親のように亭主に甘えられることは嫌なんだろう。
一方男らしい男に会ったことがないというほどの「男らしい男」ってどんな奴だ!
存在しないだろう男性像を求めることに自己矛盾がある。
それなら、男は女に母親のように甘えたい一面を持つものだという前提にたって対処した方が理に適っていることにはならないだろうか。存在しない理想像を求めて永遠にさ迷う無駄は解消すべきだと思う。
女は根っからの女優である。
だから連れ合いに対してもいろんな役柄を無意識にこなしている。
恋人であり、母親であり、女神であり、娼婦であり、友人であり、喧嘩相手もしてくれる。そして生きてゆく日常についての知恵者でもある。
だが、甘えたい、優しくして欲しい、仲良し夫婦でいたい、という思いばかりが勝った我が儘女は男に幻滅するハメになる。
そんな男にめぐり合うのは宝籤より確立が低いから。
男は小さい頃から「戦え!負けるな!」と育てられ、社会でもそれなりに戦いを強いられ疲れている。
しかし戦いは嫌だということは、生きることを放棄することになるし自尊心が許さない。
だから、つかの間の安らぎとか甘えが欲しくなる。
女性が社会進出著しい昨今では、「女だって同じよ~」と言われればそれもそうだろうが。
うちの女房も「うちは子供が3人居るみたいなものよ」と私を子供の数に入れていた。
・さ、歯磨きして
・風呂はいる時間よ
・そのパシャマはもう着ないで!洗濯カゴに出しておいて
とか、こんな言い方は子供に言う言い方だが、日常生活では不自然に感じなくなってしまった。
・あなた、外で他の人にもそんな言い方してないでしょうね、やめてよ~
なんてのも子ども扱いとみる。
男は永遠に父ではなく母親の愛情を求める。
私は違うと思っていたが、やはり同じかとも思う今日この頃ではある。
「私も男はたくさん、男に安らぎを求めても最終的には甘えてこられて…母親じゃないって言うのよ」
「そうそう、男ってカッコつけてるけど、いつも女に甘えて生きてるのよ。男らしい男って会ったことないな」
とある。
いろんな局面で女性が似たようなことを言っているから、そう感じている女が多いのだろうと思う。しかも母親のように亭主に甘えられることは嫌なんだろう。
一方男らしい男に会ったことがないというほどの「男らしい男」ってどんな奴だ!
存在しないだろう男性像を求めることに自己矛盾がある。
それなら、男は女に母親のように甘えたい一面を持つものだという前提にたって対処した方が理に適っていることにはならないだろうか。存在しない理想像を求めて永遠にさ迷う無駄は解消すべきだと思う。
女は根っからの女優である。
だから連れ合いに対してもいろんな役柄を無意識にこなしている。
恋人であり、母親であり、女神であり、娼婦であり、友人であり、喧嘩相手もしてくれる。そして生きてゆく日常についての知恵者でもある。
だが、甘えたい、優しくして欲しい、仲良し夫婦でいたい、という思いばかりが勝った我が儘女は男に幻滅するハメになる。
そんな男にめぐり合うのは宝籤より確立が低いから。
男は小さい頃から「戦え!負けるな!」と育てられ、社会でもそれなりに戦いを強いられ疲れている。
しかし戦いは嫌だということは、生きることを放棄することになるし自尊心が許さない。
だから、つかの間の安らぎとか甘えが欲しくなる。
女性が社会進出著しい昨今では、「女だって同じよ~」と言われればそれもそうだろうが。
うちの女房も「うちは子供が3人居るみたいなものよ」と私を子供の数に入れていた。
・さ、歯磨きして
・風呂はいる時間よ
・そのパシャマはもう着ないで!洗濯カゴに出しておいて
とか、こんな言い方は子供に言う言い方だが、日常生活では不自然に感じなくなってしまった。
・あなた、外で他の人にもそんな言い方してないでしょうね、やめてよ~
なんてのも子ども扱いとみる。
男は永遠に父ではなく母親の愛情を求める。
私は違うと思っていたが、やはり同じかとも思う今日この頃ではある。