思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

歴史問題

2005年05月08日 | Weblog
国には長い歴史がある。
その歴史をそれぞれの国が解釈して評価して、教科書になったりする。事実は一つしかないが神ではないので全てを網羅して解釈して、これが真実だと言い切ることは難しい。
過去は過去で過ぎ去った昔として忘れることはしない。現在は過去の集積と考え、解釈した物差しで現在の事象を判断する。
一つの事実でも人によって解釈の仕方が違う場合もある。
だから、中国・韓国との歴史認識の問題は平行線を辿るような気がする。
国家間の戦争がもたらした悲劇の解釈にこだわる。

自分が体験したことも無い史実に、国家の教育により翻弄される若者達が可愛そうな気がする。
第2次大戦も多くの日本人が翻弄された。殺し合いを望む人間なんていないはずなのに、戦場に駆り出されて否応無く殺しあった。

私は戦争を知らない子供達の一人として育ったが。
戦争の終結は、一般庶民にとっては戦争の呪縛からの開放であり、殺し合いからの開放である。
国家は国民が望みもしない戦争にただ権力によって引きずり込むわけだ。

個人間でも過去を清算して生きていこうとする人を、その過去に拘り解釈して決め付けるのは可哀想なことだ。その罪を赦して理解してやれればいいと思う。
絶対に赦せないといえば永遠に憎しみ合うしかない。
中国も韓国もアジアの隣の国である。
顔かたちも似ている。
韓国では知り合いと勘違いされ話しかけられて往生したこともある程区別も付かない。

個々人をとれば何のわだかまりも無いのに国家が立ちはだかる。
歴史の解釈の尺度の一つに「赦しあう精神」も入れて欲しいものだ。


赦す気持ち

2005年05月08日 | Weblog
昨日ある人の公演を聴いた。
70才に近いという女性の苦難の人生物語であった。
若いころ何度も自殺を決意したこともあるらしいが、今では成功している。
現在の自分が生きていられたのは「赦す気持ち」が生まれたためだといっている。
過去、自分を窮地に陥れた人々を憎んで、自分の不幸を嘆きついには涙も出なくなったそうだ。
いろんな病気にかかり死を待つばかりの失意のどん底にいたとき、思いがけないある一つの小さな親切に出会い目覚めたそうです。

自分は自分の事しか考えていなかった。
自分の不幸は全て他人のせいと考えて、人を恨み、憎み、自分の不幸を嘆いていた。
だが一方で自分は多くの人に赦されていたのではなかったか。
自分は正しいことをしているのに、と考えていたが自分の正しいと思うことが多くの人を傷つけていたのではないか。
そんな自分を周りの人は赦してくれていた。

そう気付いたときから「赦せる気持ち」が生まれた。
そうすることで心が広がり体調も回復し、あらゆる苦難にむしろ感謝して人生の糧にしてゆけるようになった。自分を苛んだストレスから開放された。
そして今は余生を感謝の気持ちで送りたい。

概略そのような話であった。
悟りを開いたわけではなかろうが、若いうちはとてもそんな気持ちにはなれない。
害を加えられたら仕返ししてやりたくのが人情だ。
辱められたら恨むのが当たり前だ。

人の行為には全て動機がある訳で、夫婦喧嘩にも原因がある。
かーっとなっているときは相手の気持ちを理解しようとする気持ちは失せている。
赦すという感情は相手の気持ちを理解することから始まると思う。
何故こんなことをするのか、何故こんなひどいことを言うのか、はかり知れない隠された動機、過去の経緯が必ずあるはずである。原因を探って理解すれば赦せる気持ちも生まれるかもしれない。

赦す行為は多分に宗教的な行為かもしれない。

赦せない!!と思って報復すれば、自分も赦せない行為をした事になるし、恨み続けても心が晴れろことは永久に無いだろう。
人として生きていく以上、やはり少しでも「赦す気持ち」を学んでいかなければならないという結論が出てくる。
赦すことによって自分の心も解放されるような気がする。