思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

写真

2006年08月16日 | Weblog
女房はパソコンには触らないが、メールアドレスは持っている。
女房が参画している某サークルはパソコンを通して会の案内が来る。
今日も先日のサークル行事のデジカメ写真を20枚ほど送ってきた。
私は女房のメールの係りである。
私にはほとんどメールが来ることはないが、女房へのメールを見逃すわけにはいかないので毎日目を通す。
文書はすべて印刷してから彼女に渡す。返事が必要な場合は口述に従い私が返事を出す。写真も印刷してから渡す。
20枚の中から勝手に厳選して4枚を印刷する。
サークルには写真にマメな人がいるようで行事が終わるたびにたくさんの写真をメールしてくる。
そのたびに私の余計な仕事が増える。

感動と創造性

2006年08月16日 | Weblog
我々が生きている現代社会には単純労働が多い。
会社勤務での繰り返される単純労働、マンネリ化する思考。
家事労働も同じ炊事洗濯にお掃除、ただ同じように繰り返すだけなら何の価値も生まないように思える。
その他の自由業でも繰り返される単純労働が多い。
ただ同じように繰り返すだけでは頭脳は硬く枯渇していくような気がする。
職人と言われる仕事も先輩の教えをひたすら守って繰り返すだけなら、真の職人芸にはたどり着けないだろう。

所詮人生は繰り返しに満ちている。
朝から晩まで時間に縛られて同じことを繰り返す。
1年ごとに季節は巡るし、行事も年々繰り返される。
同じ単純労働も何年も何十年も繰り返す。
寿命がくれば無に帰り後の世代がまた繰り返す。

そこに感動と創造性が加味されたときに新しい価値が生み出されると思う。
感動と言ってもいわゆる涙を伴う感動ではなく「え、う~ん、なぜ?」という種類の感動である。
「疑問を抱く」といった方がいいかもしれない。
それが何かを生み出す出発点になると思う。

私も会社勤務という単純労働から解放されてしまった。
しかし、仕事中は制約された労働の中でも感動と創造の喜びは味わってきたように思う。
定年という開放された状態が続く中で、思考停止状態が続いているように思えてならない。
何をしたらいいか分からない「世の定年族」の例外ではなかった。
何でも自由にできる環境に放り込まれて戸惑う、というのは贅沢な悩みなのか、枯渇した脳細胞のせいなのか。

やって楽しいことをやり続けられる人生が一番幸せだ、と誰かさんが言っていた。
若いときにそういうことに巡り合って、一生それを続けられる人生は本当に最高の人生だと思う。
だが、
「何かをやるに遅すぎるということはない」とも言う。


37.9度

2006年08月16日 | Weblog
昨日も暑かった。
37.9度だったそうだから38度に近い。

一昨日昼過ぎに街路を歩いたが、熱い日差しがアスファルトを照りつけて、地表の温度は40度をはるかに超えているだろう。
ギラギラと明るい街はほとんど人通りもなくシンとして燃え上がっている。
不気味なくらいの静けさの中、蝉の声だけが響く。

北国ではお盆を過ぎるころから吹く風の中にかすかに秋の気配を感じることがあるが、大阪は「まだまだっ」とばかりに湿った熱い風がまといつく。

「お盆」は通常13日から16日をさすらしい。
13日の夕刻に迎え火で精霊をよび16日の夕刻に送り火で精霊を送る。
こんな暑いところには「精霊さん」もあまり来たくないだろう。
暑いから今年も行くのやめとこう、なんてことになってるかも知れない。