思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

好きなように生きる

2006年05月15日 | Weblog
「あなたの好きなように生きればいいのよ」とある高齢の女性が言っていた一言が曖昧な記憶に残っている。
単純な言い方の中に人生の真理が含まれているようないないような。
90年生きた人が言うとそれなりの重みがある。

結局のところ、人は自分が選んだ生き方をしているから、好きなように生きているともいえる。
こんな環境に生まれることを私は選んでいないというかもしれない。
それでも今生きていることは、それなりに好きなように生きているのではないか。

「好きなように生きてはいない」と感じるならば、自分が生きてきた生涯を否定することになる。
もっとやりたいことがあったのにいろんな障害があって出来なかった、こんな人生は望んでいなかった。何とつまらない人生を送ってしまったことか、と。
実際には、好きなように生きた来た結果なのに。

それじゃ「あなたの好きなように生きなさい」という言葉に何か惹かれるものがあるのは何なんだろう。
後悔しないように生きなさいと言うことかもしれない。
何事にも一歩踏み出してみる心意気が必要なのだろう。
決心して踏み出さない限り「好きなように生きた」とは感じられない。
たとえ失敗しても「自分は好きなように生きた」と感じられるに違いない。

文字通り挑戦しつつ生きることがそれだろうが、逆にまた静かに平凡に日々を過ごすことも好きなように生きるひとつの道で、それもひとつの困難な挑戦でもある。
すこし逆説めいてはいるが。

出来れば臨終の床で「俺は好き放題に生きてきた、思い残すことは何も無い」といえるようになりたい。

料理のプロフェッショナル

2006年05月15日 | Weblog
同じことを6年間やり続ければ何事も一応その道のプロの領域に近づけると聞いたことがある。
女性は来る日も来る日も料理し続ける。
家族の料理、お弁当作り、料理を考えない日は無い。
その意味で女性は一般的に料理のプロである。
10年20年、50年と作り続けている訳だから。
食材も多岐にわたる、高価な食材を扱う人、これでもかと思うほど安い食材を捜し求める人、いずれも知力と創造力が必要であろうと思われる。

同じものばかりではいけない。
旬のものも取り入れなければ。
家族の健康も考慮しないといけない。
カロリーにも気を配る必要がある。
美味しい味付けの工夫。
ご飯に合う料理、パンに合う料理。
子供に喜ばれる料理。
亭主の酒の肴。
自身のためにはダイエットを中心にした考察。
知脳の発達を促進する料理。
歯の弱い人も考慮して。

食材の組み合わせは恐らく無限にある。
新しい組み合わせは創造の世界、新しい味が誕生するかもしれない。

この創造物は人に認められ賞賛されることによって更に磨きがかかるだろう。
その意味で我が家は失敗している。
子供が家を離れてから30年以上、女房は亭主のために料理してきたはずが、手抜きのプロと化した。
いかに短時間で料理を作ってしまうかしか念頭に無いように思える。
しかし、まずいと思ったことは無い。美味しい。
しかし30年間進歩は止まってしまっている。
何種類かのメニュー以外は出てこない、単純な繰り返しになった。
亭主は、美味しかろうがまずかろうが、黙々と短時間で食事を済ませてしまう。
決して感想は言わない。
褒めたこともけなした事も無い。
何と張り合いの無い亭主。
女房は、料理に時間を割くよりも別のことに時間に割くほうが創造的と悟ってしまった。
これは全て私に責任がある。


熱い視線

2006年05月13日 | Weblog
世の中の男と女、偶然顔をあわせただけでお互いに熱い視線を交し合うことがある。
自分の気持ちと相手の目線が一瞬絡みあう、そんな瞬間が何度かある。
そして脳裏に焼きつく。
お互いに惹かれあう、しかし何事もおこらないが。
多分動物的な本能がそうさせるんだろう。

それが恋となり結婚に発展したとしても、最良のカップルになるとは限らないように思われる。
そんなこととはもっと別の獣性に近い感情である。
お互いのDNAが求め合い、お互いの性器が求め合っているような、制御できないような疼くような感情が絡み合う。
その感情を抑えられないと全てを捨てて不倫とか浮気とかに進む。
感情に素直に反応すれば道徳とか社会倫理に背くことになる。

そんな2人が結びつく時は核融合反応のような全てを焼き尽くすようなエネルギーが生まれそうな気がする。
俺のことじゃないよ。

2006年05月12日 | Weblog
古今集講座、今日から『旅の歌』編に入る。
実際のタイトルは現在の日常漢字としては使われていない表現になっている。
今日はその沿革の話で終始した。
旅は「日常性からの脱却」、平安時代もそういう目で捉えられていたとか。
平安の昔は京都から遠く離れた地に旅することは、現在我々が海外に行くほどの感覚だったかもしれない。車も飛行機も無い、ひたすら歩いた訳だし、遠隔地には死をも覚悟の旅だったに違いない。盗賊おり、山賊あり、天気のよい明るい日中しか歩けない。
想像を絶する苦難があったと思われる。

突然、芭蕉の話にとんだ。
生涯旅に明け暮れて俳句を詠んだ。
最後は大阪淀屋橋で亡くなり、遺言によって遺体は300人ほどの弔問客とともに淀川を遡り京都は伏見の義仲寺に葬られているという。
義仲寺は木曽義仲の遺体が祀られている。
芭蕉は旅の途中で義仲寺に立ち寄り木曽義仲の生き方にいたく感動したらしい。
句も詠んでいるという。
  木曽殿と背中合わせの寒さかな

こんな具合で脱線してばかりいるが、その脱線話は驚くべき博識と教養が感じられる。我々下々は到底及ばない。

確かに旅は非日常の世界に飛び込むことで人間としての視野を広げることになると思う。
私は、最近はツアーの団体旅行でホテルも食事もお仕着せばかりだが、それでも非日常の世界だ。
特に海外では建造物、町並み、人々の様子、景色、それだけでも驚くべき経験だ。
日常生活をともにしたらもっと驚きが増えるだろうと思う。

余談になるがヨーロッパに行くと、我々が現在着用している洋服はやはりヨーロッパの人たちのものだなという感じがする。
日本人はやはり洋服を着こなしていない感じを持つ。
特にブランド品を身につけた日本女性は着飾ったお人形さんみたいで足が地に着いていない。
欧州の街中で見る人たちは、デブもチビも若い人もじいさんもばあさんも見事に着こなしている感じを持つ。単に体型の違いばかりではない。中には短足のお兄さんもいるがやはり見事にフィットしている。
洋服の伝統の深さを感じる。



スエーデン

2006年05月11日 | Weblog
「スエーデンの挑戦」という本を読んだ。
10年前に第14刷として発行された本だから相当古いといえば古い。
古本屋で105円だからしようがない。
私は北欧諸国については殆ど知識がないといっていい。
スエーデンといっても、元バイキングとして海賊行為で有名といったきわめてお粗末な認識しかない。
半分ほど読んだが疲れてきて、後半は斜め読みというか目に付いた項目を飛ばしながら100ページほどを10分で読んでしまうという、とんでもない読書法。

しかし概略読んで『凄いことをやってる』国だなと感じ入る。
重税と超福祉の国というイメージはあるが、地球文明の中で最先端の挑戦をしている国とも言える。
国家の理念・品格に惚れてしまう。
資本主義と共産主義のいいとこ取りをして、歴史的な文明の実験をしているとも言える旨のことが書いてある。
特に女性の権利は最も進んだ最高の環境の国かもしれない。
文明の進み具合は、女性の環境がよいかどうかで測れるのかもしれない。

この本を読むと我が日本はお粗末な競争格差社会だなと思ってしまう。
貧乏人は野垂れ死にしな、といってるような社会。
外国人も住みにくい閉鎖社会。
到底文明国とは言いがたい。

女房の友人が25歳の頃スエーデン人と結婚してスエーデンに住んでいる。
体操の教師をしているとか聞いていたような気がするが、今はどうしているのだろう。
恵まれたゆったりした老後を楽しんでいるかもしれない。
現役で働いてるかな。

今月下旬に女房と北欧を旅行することになってる。
少しは勉強しておかないと。

蜜蜂

2006年05月11日 | Weblog
この時期蜜蜂の話がよくテレビに出てくる。
東京のビルの屋上で蜜蜂を飼ってみたり、パリのど真ん中で蜜蜂を飼っていたり、大都会で作られる蜂蜜は農薬の影響が少ないのでいいとか言ってた。
ということは地方の農薬をふんだんに使った花から精製される蜂蜜は農薬に汚染されているということだろうか、などとふと考える。

私はコーヒーに蜂蜜を入れて飲むことが多い。
砂糖を入れるよりはましだろうかなんて浅はかな考えによるが、結構美味しい。
但し、どうみても値段が安すぎる蜂蜜だから何が混じっているのか分からない。
この時代気にしだしたら何も食べられなくなるので気にしないようにしている。

この前、野生の蜜蜂のことがテレビで取り上げられていた。
1匹の女王蜂を中心に何千何万の大所帯で生活している。
巣は大木のムロに作るとか。
テレビカメラが進化しているので巣の中も詳細に映し出される。
春から蜜の貯蔵を開始する、そして蜜の中に女王蜂が次々と卵を生みつける。

巨大なスズメバチが襲ってくる。
撃退法は皆でよってたかって焼き殺す方法だ。
スズメバチの体に群がって蜜蜂は羽を強烈に擦り合わせて50度の高音で焼き殺す。蜜蜂は耐えられるがスズメバチは耐えられずに死んでしまう。

そして冬が来る。
雪にうずもれた巣の中で蜂蜜を食べながら春を待つ。
しかし、予想以上に冬が長引くと備蓄量が足りずに全員が飢え死にしてしまう。
その家族は全員敢え無い最期を遂げることになる。
自然の掟は厳しい。

業務停止命令

2006年05月10日 | Weblog
大手の監査法人が2ヶ月間の業務停止命令。
大手企業の契約が更改されない事態になると、この監査法人は廃業も視野に入れなければならないほどの大事件だ。

私もこの監査法人とはいろいろ関係があった。
私は監査を受ける方の立場。
監査法人と企業側の折衝は大変なものがある。企業側は弱点を世間に曝すことを嫌がるし、監査法人側は法律に従った処理がなされていなければ、その旨を監査報告書に記載するのが義務だ。
その微妙な境界線をめぐって2社間でバトルが繰り返される。
監査法人が強硬に出れば会社側はその監査法人と契約を打ち切り別の監査法人を選ぶことが可能だ。
そうなればその監査法人は顧客を失い何千万円の監査報酬を失う。
いや、何億かな。
大手企業を顧客として獲得すれば、参加の多数の関連企業をも顧客に加えることが出来る。

粉飾を見抜けないということはプロ集団にはありえない。
多少の粉飾は改善のコメントはしても目をつむる場合がある。
投資家の判断に大きな影響を与えそうな粉飾に関しては目をつむる訳にはいかない。
すぐ結果が出るし。

この世界も結構馴れ合いがある。
接待もある。
企業側が「程々にしておいてな」という訳だ。
いかな監査法人でも末端で実務を行うのは薄給の若手社員、将来は公認会計士事務所を持つことを夢見て少ない給料に甘んじている。
彼らとて甘い罠うまい話には弱いだろう。
今回はそういった若手社員の業務を社内で審査する体制の甘さが指摘されている。
JR西日本ではないが、そのような内部の審査体制は一朝一夕にしては改善できない、企業風土は変えるのが大変難しい。

覚悟して取り組んで欲しいものだと思う。
世間の人は公認会計士監査をパスしていることに対しては信頼している訳だから、心して改善して欲しいものだ。

薫風かおる

2006年05月09日 | Weblog
朝9時少し前ゴミ出し係りを務めて後、すぐ横の公園に足を運んだ。
この時間の公演は老人の公園になる。
いつもは子供達がボールを蹴ったりしてして賑やかだが、団体さんがゲートボールの準備をしている。杖を突いている人・車椅子の人、それに付き添う介護の人たち、多分ボランティアでゲートボールをさせてあげる予定なのだろう。
また孫と思しき幼児を連れた老人がベンチに腰を下ろしている。

よく晴れた朝、気持ちいい風が通っている。
並木の下のベンチに座って何と無く上を見ると、黄緑の若葉が風にサヤサヤと揺れている。
つい最近まですっかり葉を落として寒々とした木々がいつの間にか誇らしげに若葉を5月の風にそよがせている。
木漏れ日の下を自転車で通り抜ける人がいる。
子犬を連れた赤い服の若い女性が連れの年老いた男を気遣いながら近くのベンチから立ち上がる。
やっと歩けるようになった幼児が鳩を追いかけてヨチヨチと走り回るのを若い母親が離れて見ている。

全てが動き始めるようなこの季節、暑い夏を間近にした最高の時期だ。
連休も終わって私のいろんなスケジュールもスタートする。

岡本千鶴子

2006年05月08日 | Weblog
今テレビを賑わしている殺人犯。
逮捕時の人相の悪さ、若い頃の写真とのギャップが大きすぎる。
極貧の中で育った美貌の少女だったのに。
借金上手の嘘ばかりついている女だったらしい。

この犯罪にはセックスが大いに関係しているとコメンテイターが言ってた。
美貌の持ち主だった故にたくさんの男が声をかける。モテモテの人生。
セックスの快楽を知り男なしでは生きられない人生、そして自分の貧しさと美貌のギャップが本人の性格を異常に歪めてしまったのだろうと。

しかし、美貌の貧乏人はいくらでいるがそんな人全てが犯罪を犯すほどに性格が歪められている訳ではない。
嘘つきねえ、女は概して嘘つきが多いようにも思える。
すぐバレるような小さな嘘は平気のように思える、特に見栄っ張りの女は。

まあ、まともな人には理解しがたい低次元というか異次元のお話ですね。


理由なき殺人

2006年05月07日 | Weblog
最近、誰でいいから殺したかった、とかの理由の不明確な殺人事件が多発している。
脳内細胞が狂っているとしか思えない。

 強盗殺人。
 強姦殺人。
 テロリストによる殺人。
 
どんな理由があれ、法律上は殺人は許されない。
しかし一昔前は仇討ちは許されたというか、むしろ義務のようにみなされた時代もあった。
少なくとも殺人を犯す以上、法律では裁ききれない憎しみとか恨みとかがあって欲しい。