思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

自らの死を恐れず

2007年04月19日 | Weblog
ある人が
「私は完全にキレタッ!、あいつを殺して私も死ぬ!」
と決意して行動したら9割方成功するだろうと思う。
人間はそんなことはいとも簡単に遂行できる能力を持っている。

そんな標的になるような言動は止めておこうと考えるのは当然ともいえる。

アメリカの銃社会、兵器産業などで膨大な利益を得ている者は多い。
銃規制を主張して声高に叫ぶつもりなら「自らの死を恐れずに」臨まなければならない。
銃器を誰でも町で購入できる社会は、西部開拓の名残を引きずっているのかもしれないが現代の民主主義社会にはあまりにもそぐわない。

正当防衛・護身用という名目が、多くの殺戮者も自由に手にすることができるという結果を招いている。

日本では銃所持は規制されているが、欲しければ手にする手段はいくらでもあると思う。
この世に銃器が存在する限り。

(蛇足)
優れた銃器にはある種のロマンが漂う。
一瞬にして敵を倒すそのメカニズムと機能性は美しいと言えなくもない。
そんな小説や映画も多い。
自分は当事者ではないエンターテイメント。
そんな風に感じてはいけないの?

ガイア

2007年04月19日 | Weblog
最近「ガイア」という言葉を目にすることが多い。
エコロジーの立場から地球を大きな生態系として捕らえたときそれをガイアというようだ。
「生きている地球」とでも言うような意味になるのだろうか。

もしかしたらこのガイアは宇宙で唯一生命を生み出した偶然の惑星かもしれない。
宇宙には生命の存在する可能性のある惑星はたくさんあるのかもしれないが、実際は地球が唯一の星かもしれない、などと思ったりする。

人間の夢や想像力は多くのSF小説やSF映画を生み出したが、その想像を超える宇宙生命が、もしかしたら存在しているかもしれない。

宇宙そのものが巨大な生命体かも知れないではないか。

そのガイア(地球)の中で繰り返される争い事は本当に愚かだ。
特に殺戮では何も解決しない。
しかし悲しいかなこの生態系は広い目で見ると殺戮で維持されているとも言えるのだ。
他を殺すことによってしか生命を維持できないという宿命を背負っている。

ライオンの餌食になるシマウマの死は崇高な行為とか死とか見なされるが、人間同士の殺戮は不必要な殺戮で生命の摂理に反する行為で正当化されることはない。

この自然界で起こる「強者が弱者を殺す」行為は生命を維持していく上で必要な場合に限られている。
人間だけがその掟に反した殺し合いを行っている。
生命の倫理に外れた狂った指導者が引き起こす戦争、生命の倫理から逸脱した個人が時として理解できない殺戮を繰り返す。

自爆テロなんかは異常の最たるものだ。

検索してみた

2007年04月18日 | Weblog
試しにわが劇団の名称で検索をかけてみた。
当市の市報に出ている劇団公演の案内文が出てきた。
なるほど、それだけかと思っていたら、もう一つ出てきた。
劇団員が書いているブログが出てきた。
勿論私のブログじゃない。

なるほど、ブログの中で劇団名を固有名詞で書いているのが検索された訳だ。
演劇の写真まで入れてある。
先日の公演のある劇のラストシーンの写真だが携帯で写したもののようだ。
暫くは知らなかったことにしておこう。
「お気に入り」には登録したけど。

しかし検索エンジンは凄い。
私も自分の名前をフルネームで検索したがヒット数はゼロ、女房の名前で検索すると一つだけヒットした。
それは当市の市報の広告ページだった、彼女の名前で出したある案内広告だった。
コンピューター恐るべし。
特殊な固有名詞は簡単に判明する。

だから?

2007年04月17日 | Weblog
久しぶりに本を読む。
著者は面白いことを言っている。

「我々の体の最小単位は原子である、しかも数年で我々の体のすべての原子は入れ替わってしまう」
「我々の体を構成する原子は、昔植物だったかもしれないし他の動物だったかもしれない」
「生命はひとつながりであるという実感を持つ」

なるほど、そのようにも言えるかもしれない。
私もそのようにふと感じることもある。
だからそれがどうしたの、といわれると何もない。
何か特別の命題が明らかになることもない。

ほんの1秒もない

2007年04月16日 | Weblog
地球の歴史は50億年弱といわれる。
それを太陽暦の1年間365日に換算すると、大晦日の日に人類の始まりかある。
そして大晦日の午後11時59分59秒になる頃人類の文化が花開き最後の1秒で機械文明が大きく発展する。
そして現代はおそらく最後の百分の一秒にも満たない。

この最後の100分の1秒の間にとてつもないことが起こっているわけだ。
生命を育んできた母なる地球を一瞬にして破壊できるほどの科学技術をも開発してしまった。
人類は自らを滅ぼす環境破壊・地球破壊に手を染めている。

早く地球の鼓動に耳を傾けて聞き取り、早く舵を大きく取り直す必要があるように思う。
残る100分の1秒で人類は地上から消え去ってしまうかもしれない。

ふとこんな思いに囚われたりする私は変わり者かもしれない。

境遇

2007年04月15日 | Weblog
自分の現在の境遇に不満を持っていると、あの時ああすれば、あの時これを選ばなければ、もっと別の境遇の元で生活できたかもしれない。
ああ、割を食ってしまったなあ、などと思う。
 
常に自分を過大評価する。
客観的に見れば
「お前の能力からしても、今の境遇はお前が望むことの出来る最高の境遇だ」
と誰の目にも明らかでも。

経験を重ね年を重ねるとそれがわかっくるのだろうか。
老人の多くは「感謝の気持ち」を口にするようになる。
「今自分がこうしてあるのは多くの方々のお陰だ、これからは少しでも恩返しが出来るような生き方をしていきたい」
それはある程度恵まれた老後を送ることが出来る人が言える言葉である。


禁煙

2007年04月15日 | Weblog
旅行先で灰皿のある場所を探してウロウロする無様な姿を晒しております。
そしてある方が言いました。
「ある程度の年齢になるとタバコの害の認識が深まるに連れて、恐れをなして禁煙に転じる人が多い。やめない人は頑固で意志の強い人だ」

タバコをやめない人は意志の弱い人間だと思っていたとき、逆説の真理に触れたように思った。

しかし、煙害を撒き散らし自らの健康を害することを知りながらやめないのは傲慢な意志の弱い人間としか言いようがない。

今更もう遅いかも知れないが、禁煙も考えないといかんなと思う。

思い・考え方

2007年04月13日 | Weblog
人の行動はその人の思い・考え方を理解すると納得できるものがある。

女房も一つの考え方を持っている。
「私は不器用だから何でも人の2倍やらないと人並みにならないのよね、だから3倍の努力が必要なのよ」
ふむ、言ってる通りの行動をしてるな、と思う。
但し家事にはその思い入れはないように思う。

社交ダンスを始めて半年になる女性。
殆ど欠席しないが、上達は遅々として望めない感じ。
しかし彼女は言う。
「私が駄目なのは見てても分るでしょ、でも絶対に続ける。わたしこれまでは何をやっても中途半端で何の能力もないし、何一つやり遂げたことがない。ダンスも今日は休んじゃおうと思うこともある。多分そうしたらダンスも駄目になると思う。
だから何を言われてもやり遂げようと思ってる。何年かかっても。そうしないと自分は何をやっても駄目で一生終わりそうに思うから」
多分彼女は殆ど運動をしたことがないんだろうなと思うほど運動神経は鈍そうだ。
しかし、彼女のその思いには敬意を払い感服している。
何をやっても駄目と言う自らの烙印が逆の原動力になることもあるんだ、と思う。

かく言う私は器用貧乏と言うやつで、悪く言えば惨めでさえある。
「惨め」の感情は劣等感と優越感の複合体だ。
(これは蛇足)

佐渡旅行6

2007年04月13日 | Weblog
友達に佐渡に行くといったら
「あ、たらい舟知ってる」
と言われた。

たらい舟といえば佐渡を連想するくらい佐渡との結びつきがあるらしい。
勿論乗りましたよ、小木港の近くで。
4,5人は乗っても大丈夫なほど大きなたらいの形をした船です。
近場の海で簡単な漁が出来るように開発された伝統的な小船のようです。
観光の漕ぎ手はすべて女性です。
1本の櫂で漕ぎます。

私は子供の頃港町で育ちましたので櫂も艪も操れます。
小船で親父とよく川を下って海辺の浅瀬に碇をおろしてつりをした記憶があります。
船を持っていたわけではなく釣りが好きな親父の友人の小船を借りたものです。

いささか腕に自信がありましたので私も漕がせてもらいました。
ところが漕ぎ方が全く逆なのです。
普通櫂や艪は船の船尾に備えてあり船を水で押していくように漕ぐのですが、たらい舟の櫂は進む方向の前方に備え付けてあり、船を引っ張っていくように漕ぐのです。

へえ、こんな漕ぎ方もあるんだと感心しました、新発見です。
従って水を引き入れるように漕ぐ必要があるのです。
進む方向を向いて櫂を操るのは理にかなっているのかもしれません。
理屈は納得しましたが、かつて漕いだ力の入れ方とは逆なので流石にうまくは進みませんでした。

でも
「ご主人は心得がありますね」
と褒められたようなお世辞を言われたような。
何となく気分を良くして船を下りました。

佐渡旅行5

2007年04月12日 | Weblog
  佐渡の裂き織り、という展示をいるんなところで見た。
  佐渡の伝統工芸とも書いてある。




裂き織はなんでもありのようだ。
草履の鼻緒、手提げのバッグ、敷物、幅がいくらでも広がりそうな工芸だなと思う。