つらねのため息

写真や少し長い文章を掲載していく予定。

東京大空襲と中ノ郷質庫信用組合

2015-03-10 11:33:00 | 生協・協同組合
1945年3月10日の東京大空襲は東京の生協運動にも大きな被害を与えた。戦前、東京の下町には賀川豊彦らが取り組んだ関東大震災の救援活動にルーツを持ち、1927年、本所駒形町に設立された江東消費組合が活動していた。戦時下の統制経済の中で生協(当時の名称は消費組合)運動は窒息させられていたが(賀川豊彦も憲兵隊に拘束され、取り調べを受けている)、東京大空襲により、「下町江東方面は全く灰燼に帰し、見渡す限りの焼野原となった。組合の職員諸君は最後まで職場を死守したが、施設の凡ては烏有にに帰したばかりでなく組合員も生活の本拠を失って、組合事業も継続不可能となった(木立義道「江東消費組合の足跡とその事業の歴史的意義」江東会編『回想の江東消費組合』(1979年、江東会)56頁)」。江東消費組合は戦後再建されたが、活動を軌道に乗せることができず、1951年12月に解散した(東京都生活協同組合連合会創立三〇周年記念歴史編集委員会『東京の生協運動史』(1983年、東京都生活協同組合連合会)86-87頁)。

しかし、戦災を潜り抜け、戦前の協同組合運動を今に伝えるものがある。それが中ノ郷信用組合である。

中ノ郷信用組合

賀川らは江東消費組合が設立されたのち、庶民金融の重要性を考え、1928年6月、中ノ郷質庫信用組合を設立した(庶民が利用できるように、信用事業だけでなく質屋事業も営んでいた)。この組合の質庫は、戦災に耐え、中ノ郷信用組合と改名した同組合の本部横に現在も存在している。中ノ郷質庫信用組合第19年度事業報告書によると「偶々、3月10日ノ大空襲ニテ本組合ノ事業中心地タル江東方面一帯ガ灰燼ニ帰シ本組合本部並ニ厩橋質庫(人手不足ノタメ休業中)ガ消失セシ中ニ本部倉庫ハ耐火克ク効ヲ奏シ質物ハ勿論重要書類一切ガ難ヲ免レタリ」という(中ノ郷信用組合五十年史編纂委員会編『中ノ郷信用組合五十年史』(1979年、中ノ郷信用組合)78頁)。

中ノ郷信用組合 - Wikipedia

なお、上記wikipediaのページにある写真の中で本店の横に立つ低い建物が、戦災に耐えた当時の倉庫である。戦前の東京の協同組合運動の歴史を今に伝える貴重な遺産と言える。

鶴見太郎著『橋浦泰雄伝』

2015-01-11 20:09:00 | 生協・協同組合
鶴見太郎『橋浦泰雄伝』(晶文社 、2000年)を読んだ。

戦前、中野から杉並にかけての中央線沿線に西郊共働社という今でいう生協のような組合があった。この組合は当時出現しつつあった主婦層を家庭会として組織化し、講習会やピクニックなど活発な文化活動を展開したことで有名だ。組合員には、与謝野晶子、奥むめお、大宅壮一、中条百合子など文化人が顔を揃えていたことでも注目される。戦時中は活動を停止したが、戦後いち早く活動を再開し、そのなかでいち早く「生活協同組合」という名称を使ったのがこのグループであった。

橋浦泰雄(1888~1979年)はこの西郊共働社から始まる一連の活動のリーダー的な役割を担った一人である。最近、「生活協同組合」という言葉を発案したのはこの橋浦であるという文献を見つけたので、ふとどんな人が「生協」の名付け親になったのか知りたくなり本書を手に取った。

本書を一読して驚いたのはその多彩な活動とそれらの有機的な連関である。いうまでもなくコミュニストであり、社会活動家であった橋浦だが、同時に有島武郎と文学を語りあう仲であり、画家であり、ナップ(全日本無産者芸術連盟)の委員長でもあった。また柳田國男の門を叩き、全国を調査して回った民俗学者としての顔ももち、その全国的な組織化に大きく寄与したという。そしてこれらの多様な活動が橋浦の中では棲み分けられ、多彩な人脈と活動が一人の人間の中に同居しつながっていることはとても興味深い。この時代の共産主義活動家の多くが、生家やその周辺と疎遠になっていったのに対し、鳥取県岩美郡の生まれの橋浦は、生家や郷里と常に良い関係を築いていたという点も橋浦の人間性を物語る。

このような人物であればこそ、消費組合運動においてもリーダー的な活動ができたのだろうし、何より、民俗学の調査を通じて養われた人々の「生活」への視座が「生活協同組合」という言葉の発案につながったであろうことは想像に難くなく、そこに込められた意味を改めて考えてしまう。

現代から見た時、その足跡をたどることの意義がどれほどあるかはわからない。しかし、私たちの暮らしがこういう人たちの活動によってつくりあげられてきた歴史の上に成り立っているものであることを知ることはとても意味があることのように思う。



鶴見太郎『橋浦泰雄伝――柳田学の大いなる伴走者』(晶文社、2000年)