高円寺にある万寿山松応寺というお寺に行ってきた。
お寺の前にあった杉並区教育委員会の説明文によると、この松応寺というお寺は、もともと浅草にあったお寺が、大正の時代に高円寺に移転してきたとのこと。ただ、昭和20年の空襲で焼けてしまったらしく、歴史など詳しいことはよくわかっていないらしい。
この松応寺、江戸後期の思想家、佐藤信淵の墓がある。佐藤信淵は、江戸所払になった際に、浦和の鹿手袋に移り、そこでその主著の一つ『農政本論』を著したと言われており、元浦和市民として、なんとなく気にかけていた。その墓があるというので、行ってみたわけである。
ところで、この松応寺、将棋の小野五平十二世名人の墓もあることになっている。ところが、将棋の中継記者、松本博文氏によると、このお墓は現在確認できないという。小野五平が亡くなったのは、大正10年のことだから、松応寺が高円寺に移ってきてからのこと。とすると、戦災で焼けたあと、再興の過程で整理されてしまったのだろうか。もしかしたら無縁仏として積まれた墓石の中に小野五平の墓石もあるのかもしれないが、外から見ただけでは、それらしいものは確認できなかった。
お寺の前にあった杉並区教育委員会の説明文によると、この松応寺というお寺は、もともと浅草にあったお寺が、大正の時代に高円寺に移転してきたとのこと。ただ、昭和20年の空襲で焼けてしまったらしく、歴史など詳しいことはよくわかっていないらしい。
この松応寺、江戸後期の思想家、佐藤信淵の墓がある。佐藤信淵は、江戸所払になった際に、浦和の鹿手袋に移り、そこでその主著の一つ『農政本論』を著したと言われており、元浦和市民として、なんとなく気にかけていた。その墓があるというので、行ってみたわけである。
ところで、この松応寺、将棋の小野五平十二世名人の墓もあることになっている。ところが、将棋の中継記者、松本博文氏によると、このお墓は現在確認できないという。小野五平が亡くなったのは、大正10年のことだから、松応寺が高円寺に移ってきてからのこと。とすると、戦災で焼けたあと、再興の過程で整理されてしまったのだろうか。もしかしたら無縁仏として積まれた墓石の中に小野五平の墓石もあるのかもしれないが、外から見ただけでは、それらしいものは確認できなかった。
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