「引き籠もり」が問題になっている。
人間関係を断ち切って、家の中に引き籠もってしまう人達のことを言う。報道でも特集で取り上げられ実情を世間に訴えている。しかし、そんな中でひとつだけ気になることがある。引き籠もりの本人又は家族の人が現状を打開して問題を解決しようと言う気概を持っているとは感じられないことである。すでに引き籠もりは深刻な事態に陥っており精神的にも異常な状態になっているにも拘わらずである。そして、何故引き籠もりをしているか、何故引き籠もりをさせているかを淡々としかも冷静に報道に対して事細かに説明しようとしている。報道はそれを分析して引き籠もりの原因を明らかにしようとしている。報道がカウンセラー役を果たすのであればそれでもいいかも知れないが、カウンセラーであれば聞き役だけで原因の究明なんてしないし、本人達の問題解決の後押しをしてやるだけである。
「引き籠もり」の原因は引き籠もりをやめさせられなかったことである。
「引き籠もり」を是認してしまい、定常状態として生活の一部に植え付けてしまったことである。本人に「引き籠もり」でも何も問題ない快適な生活が保障されているからである。周囲の人達は「引き籠もり」の存在を認め「引き籠もり」ができるように守り助けてきたのである。それがなかったら「引き籠もり」そのものが存在し得ないはずである。引き籠もりの原因と言われるものは、単なるきっかけに過ぎない。きっかけは千差万別であり、きっかけを究明して取り除いてもそれだけでは引き籠もりは直らないと思う。原点に戻ってもう一度引き籠もりをやめさせる努力をやり直さなければならないのであり、「引き籠もり」の原因は引き籠もりをやめさせられなかったことである。きっかけは何であれ、引き籠もりが間違っていることを知らしめなければならないのである。
引き籠もりのきっかけは些細なことである。
その些細なきっかけから生じた開かれた社会への拒否反応を小さな芽のうちに摘んでおく必要があったのである。それを甘やかしか無関心から放置してしまったため、大きく育ってしまった。そのために社会との接触の機会を失ってしまい、ますます引き籠もりを強くしていったと思われる。そんな些細なきっかけは人生の中でいくらでもある。そのたびに社会生活を否定しない方向へ善導してくれる人が必要なのである。その役割を果たす多くの部分は親であり兄弟であるところの家族である。当然ながら、よりよい人生を送るための本人の自助努力も重要であるが、自助努力は周囲からの刺激に対して起こるものであり、周囲からの刺激がなく自助努力する必要性がなければ、そしてその状態が周囲から是認されたままであればよりよい人生を目指すことなく安易な現状維持を続けてしまう。
引き籠もりを正当化したり周囲の責任にするのは何かおかしい。
しかもそれをマスコミの前で堂々と説明し主張しているのは何なのだろう。引き籠もりの原因と責任は直接的には自分の中にあるはずである。まずは、そこをどうするかを考えるのが最初である。経験談や教訓を話せるのは引き籠もりを克服できた人であり、どのように克服したかについてである。現に引き籠もり状態にある人がその言い訳や口実をいくら語っても説得力がないし、何の教訓も生まない。ましてやそれを語ることによって誰かが解決策を授けてくれると思ったら大間違いである。自ら解決しようとする気概のない人には誰も救いの手を伸べる人は居ない。「天は自ら助ける者を助く」「叩けよさらば開かれん」である。少々厳しいかも知れないが、この厳しさがなかったことが引き籠もりの大きな原因ではなかろうか。
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