どんぐりとは、「鈍栗」である。
本当は「団栗」が正しいようである。「団」とは丸いという意味であり、丸い栗のことを言うらしい。しかし、食べられる栗も丸いが、どんぐりとは言わない。通常どんぐりは渋くてそのままでは食べられないものを言うようだ。「どんぐりの背比べ」とは、少しの差で本質的にはほとんど差がないことのたとえである。形や大きさも同じようで代わり映えしないことから平凡で特に優れたものがないことを意味する。ただし、「どんぐり」は「栗」と違っていずれも食用には適さない。動物の餌にはなるようである。
自民党総裁選が始まった。
史上始まって以来の9人もの候補者が顔を並べている。今までと何が変わってこのような状況になっているのだろう。一つは「派閥」の影響が考えられる。「派閥」に関係なく誰でも自由に立候補できる環境が整ったのかもしれない。ただし、「派閥」が解消されたのではなく、「派閥」が水面下に潜って、今現在でも「派閥」の支援を得ないと立候補も当選も難しい状況であり、ほとんどの候補者が「派閥」を無視することはできないし、推薦人を確保するにも「派閥」頼みであるような気がする。
候補者が乱立するということは、優秀な人材が少ないことでもある。
東京都知事選挙でもそうであったが、優秀でなくても立候補できる環境にはあると思うが、申し訳ないけれども一部を除いて都知事にふさわしいと思われる人はほとんどいなかった状況でもある。本来の優秀な人材の能力が低下したため、その他の大勢にも当選の確率が上がって立候補の枠が広がったともいえるし、選挙民の節操がなくなったともいえる。どうでもいいような状況が展開し、どうなってもあまり変わらないという風潮が漂っているのであろう。うまくいけば一発当たるかもしれないという安易な気持ちで挑戦する人が出現しているのだろう。
自民党総裁選も同じであろうか?
本当に飛び抜けた素晴らしい人材が何人かいれば、その他の人達は立候補を断念するだろう。9人全員が素晴らしい人材とはどう考えても思えない。そうであれば9人ともにそれなりのほぼほぼの実力と才能しか保有していないのだろう。そういう意味で「どんぐりの背比べ」である。私にはそのようにしか見えないし、その差は僅差であり、誰を選んでも一長一短、帯に短し襷に長しであり、一国の総理大臣を任せられる器の持ち主とは思えない。
実力と才能がないのであれば、何が売りなのだろう。
それは個人の信念である。9人ともに基本は国民の意見と国の組織の意見を聞きながら最適な結果が得られるように適切に対処してゆくと公言しているようだが、自分の信念が感じられない。もっと言うと、周囲の反対があろうと自分が正しいと信じた道を追求するという情熱と信念が感じられない。反対に反対されそうなことには言及しないで済ませようとしている。選挙のための決意表明であり、日本国をどのようにしようという意気込みが感じられない。
選挙に勝つことが目的ではない。
自分の信念を世に問うて、その反応を得るのである。結果が良くても悪くても最善を尽くすのである。国民に犠牲を強いることでも、日本の国のため必要であればやり通さなければならない。その必要性を説得し納得させることが政治家の使命でもある。人聞きのいい耳に心地よいことを並べるだけで済ませようとする政治家は役立たずである。悪いところを改善しようとすれば当然犠牲が生じるし、犠牲を伴わない改革はありえない。
自己の信念には個性がにじみ出る。
これまで生きてきた中で築き上げられた信念であれば他人と同じはずがない。その信念の部分で他人と差別化できるのである。どこを切り取っても信念が感じられるのが本来である。そこに周囲のご機嫌取りをしてしまうと信念は消え去ってしまう。例え一時的に周囲に迎合してもその先には信念に基づく目的・目標が見えてくるし、見失ってはいけないのである。そんなことを考えながら、9人の候補を見回してみると、信念の人を見つける人が難しい。実力も能力もそこそこで信念も感じられなければ、日本の将来は安泰とは言えない。
本当は「団栗」が正しいようである。「団」とは丸いという意味であり、丸い栗のことを言うらしい。しかし、食べられる栗も丸いが、どんぐりとは言わない。通常どんぐりは渋くてそのままでは食べられないものを言うようだ。「どんぐりの背比べ」とは、少しの差で本質的にはほとんど差がないことのたとえである。形や大きさも同じようで代わり映えしないことから平凡で特に優れたものがないことを意味する。ただし、「どんぐり」は「栗」と違っていずれも食用には適さない。動物の餌にはなるようである。
自民党総裁選が始まった。
史上始まって以来の9人もの候補者が顔を並べている。今までと何が変わってこのような状況になっているのだろう。一つは「派閥」の影響が考えられる。「派閥」に関係なく誰でも自由に立候補できる環境が整ったのかもしれない。ただし、「派閥」が解消されたのではなく、「派閥」が水面下に潜って、今現在でも「派閥」の支援を得ないと立候補も当選も難しい状況であり、ほとんどの候補者が「派閥」を無視することはできないし、推薦人を確保するにも「派閥」頼みであるような気がする。
候補者が乱立するということは、優秀な人材が少ないことでもある。
東京都知事選挙でもそうであったが、優秀でなくても立候補できる環境にはあると思うが、申し訳ないけれども一部を除いて都知事にふさわしいと思われる人はほとんどいなかった状況でもある。本来の優秀な人材の能力が低下したため、その他の大勢にも当選の確率が上がって立候補の枠が広がったともいえるし、選挙民の節操がなくなったともいえる。どうでもいいような状況が展開し、どうなってもあまり変わらないという風潮が漂っているのであろう。うまくいけば一発当たるかもしれないという安易な気持ちで挑戦する人が出現しているのだろう。
自民党総裁選も同じであろうか?
本当に飛び抜けた素晴らしい人材が何人かいれば、その他の人達は立候補を断念するだろう。9人全員が素晴らしい人材とはどう考えても思えない。そうであれば9人ともにそれなりのほぼほぼの実力と才能しか保有していないのだろう。そういう意味で「どんぐりの背比べ」である。私にはそのようにしか見えないし、その差は僅差であり、誰を選んでも一長一短、帯に短し襷に長しであり、一国の総理大臣を任せられる器の持ち主とは思えない。
実力と才能がないのであれば、何が売りなのだろう。
それは個人の信念である。9人ともに基本は国民の意見と国の組織の意見を聞きながら最適な結果が得られるように適切に対処してゆくと公言しているようだが、自分の信念が感じられない。もっと言うと、周囲の反対があろうと自分が正しいと信じた道を追求するという情熱と信念が感じられない。反対に反対されそうなことには言及しないで済ませようとしている。選挙のための決意表明であり、日本国をどのようにしようという意気込みが感じられない。
選挙に勝つことが目的ではない。
自分の信念を世に問うて、その反応を得るのである。結果が良くても悪くても最善を尽くすのである。国民に犠牲を強いることでも、日本の国のため必要であればやり通さなければならない。その必要性を説得し納得させることが政治家の使命でもある。人聞きのいい耳に心地よいことを並べるだけで済ませようとする政治家は役立たずである。悪いところを改善しようとすれば当然犠牲が生じるし、犠牲を伴わない改革はありえない。
自己の信念には個性がにじみ出る。
これまで生きてきた中で築き上げられた信念であれば他人と同じはずがない。その信念の部分で他人と差別化できるのである。どこを切り取っても信念が感じられるのが本来である。そこに周囲のご機嫌取りをしてしまうと信念は消え去ってしまう。例え一時的に周囲に迎合してもその先には信念に基づく目的・目標が見えてくるし、見失ってはいけないのである。そんなことを考えながら、9人の候補を見回してみると、信念の人を見つける人が難しい。実力も能力もそこそこで信念も感じられなければ、日本の将来は安泰とは言えない。
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