オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

資本主義と社会主義

2022年01月23日 | Weblog

資本主義と社会主義の違いについて、

 資本主義とは中身であり、社会主義とは入れ物である。いずれも元々は同じような自由観をもつ思想であったが、産業が発達し、資本家と労働者が対立して個人の利益を追求するようになった資本主義に反発して社会的自由を追求した社会主義が誕生し、現在に至っているが、資本主義はますます発展し、社会主義は衰退しつつある。しかし、資本主義も躓きを露にしつつある。

追求するのはいずれも自由である。

 何が違うかというと、個人を中心にするのか、社会を中心にするのかである。個人は社会の中で活動しており、その個人を取り巻く環境が社会である。そういう意味で、中身と入れ物の関係にあると思う。そして、本当に追及すべきは中身だけでもないし、入れ物だけでもない。中身も入れ物も一緒にして個人の自由を追求しなければならない。二つを折衷したものが理想なのかもしれない。

資本主義の中で入れ物の社会主義を取り込むためには何をしなければならないだろう。

 ひとつは、経済一辺倒の考え方から脱却することである。今のままでは資本主義は経済は発展してもその悪害のために破綻してしまうだろう。世の中は経済だけではないのである。自由・平等・友愛の精神をもう一度取り戻さなければならない。資本主義の経済発展の中で自由・平等・友愛の精神が阻害されるのであれば、何かを考え直さなければならない。金儲けだけが最終目標ではないのである。

ある程度「入れ物」の枠の中で個人の自由を制御しなければならない。

 そして、平等な個人の枠を準備して、この枠の中で自由な経済活動をすることとなる。枠を取っ払ってしまっては自由・平等・友愛の思想から遠のいてしまう。今の資本主義の経済活動の中ではこの自由・平等・友愛の精神が欠落してしまっている。確かに個人レベルでの活動の中で自由・平等・友愛を期待し実現してゆくことは理想でもあるが、ある程度の社会的な制度がない限り限界があるだろうし、まさに現在がその状態である。

自由主義というとすべての強制や制限を拒否するが、

 自由にも秩序ある統制が必要なのであり、秩序ある統制の中でしか本来の平等や友愛は実現しないのである。個人が勝手気ままに自由を謳歌したのでは全体としては無秩序の統制の効かないものになってしまう。バラバラの個人ではなくて、たくさんの個人の集まりの中で自由・平等・友愛を実現するためには入れ物としての社会的制度が必要なのであろう。

だからといって、徹底した統制経済であってはならない。

 ひとつの型にはめた経済を追求することは間違いの元であり、これが社会主義の躓きの始まりだったのではなかろうか。個人相互の自由・平等・友愛の精神を大事にして拡大・成長させ、お互いが助け合える社会を築いていかなければならない。そして、あらゆる組織や集団や国家が経済そのものを有効に管理できる社会が望ましいのだろう。資本主義経済の暴走をそのまま放置することは許されない。

その進むべき方向を決めるのは多数決でも独裁でもない。

 冷静な社会的実験の結果に基づいて、これを分析・評価してみんなで討論してあるべき姿の結論を出し、方向を定め決定してゆかなければならない。これが議会制民主主義によるところの代表議会制度でもあろう。その中で社会主義的な思想を取り込んで、資本主義をより良いものへと改革してゆかなければならないのだろう。社会主義も立ち位置が違うだけで同じである。そして両者は理想の姿に近づくことになる。


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