晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

怖かった思い出。

2008-02-14 16:23:14 | 生活
 戦前の朝鮮での暮らしぶりは、今現在と比較しても夢のような生活であった。食べ物の話になるが、明太子などは4斗樽でおいてあった。毛がにのシーズンには毎日おやつに食べていた。食べきれないほどたくさんにあった。正月には父が狩猟をやっていた関係で、きじが2~3羽玄関にぶら下げてあった。砂糖なども豊富にあり、私はなぜか練乳が好きで、原液を飲むのが好きであった。

 兄はすでに旧制中学に通っており、スキーをこなしスケートなどはウェッジ類を各種含めて7~8台持っていたようだ。非常に寒いところであって、夕方庭に水をまいておくと翌朝には簡易スケート場となるほどだった。私はまだ5,6歳だったので父が作ってくれた輪回しだとかこおり(物入れの)を持ち出しては芝山を滑っていた。ゴルフボールを壊しては、中に巻いてあるゴム(結構良質のゴムで幅1.5センチほどの薄いゴムがぐるぐる巻いてあった)でいたずら気分を味わっていた。

 秋のりんご狩り、ぶどう狩りは、今でもはっきり覚えているが。結構高い棚を作ってあったように記憶している。まだ子供のせいか本当に高く感じたものである。

 あるとき、朝鮮の子供を泣かしてしまったことがある。いわゆる子供のけんかであるが、その親が見咎めて洗濯棒を振りかざして追いかけてきた。朝鮮の人たちはすりこ木棒のような長い棒で叩いて洗濯する習慣がある。その棒で叩きのめそうという勢いだった。チマチョゴリを着てあの独特の形状をした靴を履いた母親だった。必死で逃げた。怖かった。日本の家庭教育では子供のけんかに親は出てこないのが当たり前となっていたはずだ。それなのになぜ?
 
 ようやくの思いで門の中へ入り、家に駆け上がり母に救いを求めた。さすがに門の中までは追いかけることはしなかったが、日本人街を外れて遊びにいくことを固く注意された記憶がある。二度とそのようなことに巻き込まれることはなかった。

 次回は、敗戦前後の北朝鮮からの脱出について書くつもりである。


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