先日のニュースによると、
【高松塚、キトラ古墳(いずれも明日香村)の壁画の保存方法を考える文化庁・古墳壁画保存活用検討会保存技術作業部会(座長、石崎武志・東京文化財研究所保存修復科学センター長)の第1回会合が8日、奈良文化財研究所で開かれた。壁面の泥の下で残る可能性が高いキトラ古墳の十二支像「辰(たつ)」「巳(み)」「申(さる)」について、泥と漆喰(しっくい)を一体で剥(は)ぎ取ることを確認した。早ければ、来年秋にも剥ぎ取り作業が開始される。】とあった。
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高取城をあとにして曲がりくねった急な登山道?を車のあるところまで降りた。
車に乗り込み車道を下ろうとすると、道脇のキノコが気になり度々停車して写真撮影。
壷阪峠まで下り右折、すぐに“五百羅漢”への道標があった。
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“高取城”について調べていると、次の文に出会った。
【 高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。
それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺 っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。
司馬遼太郎 街道をゆく 大和・壺坂道 城跡の森 より抜粋 】
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先日、“天誅組”の記事を書いてから、無性に“高取城”へ行きたくなった。
【天誅組は尊王の志が厚い十津川で兵を募り 、難攻不落の「高取城」を攻め取り、ここから天下の尊皇攘夷の志士たちに倒幕の号令を挙げるため、高取城への攻撃が開始されました。高取の鳥ヶ峰で火蓋は切られましたが、大阪冬の陣・夏の陣で活躍した攻城砲が天誅組に火を噴き、火力で劣る天誅組は敗退しました。】
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昨夜は1ダースほどのメンバーで隣町の居酒屋へ。
我々が通された部屋の壁には、“彼岸花の向こうに川に置かれた飛び石”の写真。
私はその写真を見て、すぐに飛鳥・稲淵で撮影された“石橋”だと分かった。
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先日、再び“もうこの森”へ出かけた。
以前、ブログに大化の改新の際の、 中臣鎌足と蘇我入鹿の伝説の残る“もうこの森”のことを書いた。
あの頃と季節は変わり、寒いし、風は強く時折小雨も降る天候。
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先日のブログ“雷丘”の話には後日談がある。
何年かして栖軽が死んだとき、天皇はその忠勤ぶりをしのんで、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した柱と立てさせた。雷は碑文を立てたのを恨み憎んで、碑文の柱を蹴飛ばし踏みつけた。ところが柱の裂け目に挟まれて、またもや捕らえられてしまった。天皇は雷を許してやり、新たに碑文の柱を立てさせた。碑文には、「生きている時ばかりでなく、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」と書かせた。これが、雷の丘と名付けられたいわれの起こりであると考えられているそうだ。
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昨日のニュースは大峰山系で登山者に落雷事故があったことを報道していた。
そのニュースを見ながら、飛鳥にある“雷丘”について考えた。
“雷丘”は、高さ10メートル前後、周囲300メートルほどの小丘 である。
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