柳田国男の生家は移築されて現在の場所にあるという。
それまでは、“大庄屋三木家”のある辻川という集落の中にあり“銀の馬車道”に面していたらしい。
“もちむぎの館”に入る前に、その界隈を散策することにした。
腹減らし、腹減らし!
@大庄屋三木家住宅
三木家は、姫路藩の大庄屋をつとめました。現存する屋敷は当時の面影を残し、江戸時代の屋敷構えとその生活の一端をうかがう貴重な資料です(県指定文化財)。また、柳田國男が幼少期にここの本を自由に読みあさり、後年の博識を最初に培った場所であるといわれています。
平成22年10月から保存修理工事が始まりました。
@旧辻川郵便局
大正12年に三木家9代当主・三木拙二により建てられ、電信電話局の役割もしていました。
辻川郵便局から福崎郵便局と呼び名が変わり、現在の福崎郵便局の前身ともいえるものです。平成20年に国登録有形文化財となりました。
@銀の馬車道
「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。
道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。
この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。
完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、一部は新幹線姫路駅になっています。
それまでは、“大庄屋三木家”のある辻川という集落の中にあり“銀の馬車道”に面していたらしい。
“もちむぎの館”に入る前に、その界隈を散策することにした。
腹減らし、腹減らし!
@大庄屋三木家住宅
三木家は、姫路藩の大庄屋をつとめました。現存する屋敷は当時の面影を残し、江戸時代の屋敷構えとその生活の一端をうかがう貴重な資料です(県指定文化財)。また、柳田國男が幼少期にここの本を自由に読みあさり、後年の博識を最初に培った場所であるといわれています。
平成22年10月から保存修理工事が始まりました。
@旧辻川郵便局
大正12年に三木家9代当主・三木拙二により建てられ、電信電話局の役割もしていました。
辻川郵便局から福崎郵便局と呼び名が変わり、現在の福崎郵便局の前身ともいえるものです。平成20年に国登録有形文化財となりました。
@銀の馬車道
「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。
道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。
この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。
完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、一部は新幹線姫路駅になっています。
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