写真は甘樫丘から北西方角の眺め。
奈良盆地の広がりがよく分かる。
左に畝傍山、右端に耳成山。
正面むこうに生駒連山。
甘樫丘の真下に見える集落が“豊浦”。
“豊浦”にある寺は、もちろん『豊浦寺』。
『豊浦寺』とは、日本最初の寺(創建年の解釈によっては飛鳥寺に次ぐ2番目のお寺となります)とも呼ばれ、飛鳥五大寺の一つにも数えられたお寺でした。
「日本書紀」の記述では、552年、百済の聖明王から金銅の釈迦仏などが献上された際に、物部氏や中臣氏らの反対を抑え、蘇我稲目が向原の自宅に持ち帰り、それを寺として安置したことが始まりとされています。
しかし、その後に疫病が流行。これを国神の祟りとして排仏派たちは、仏像を難波の堀江に流し、寺を焼き払いました。後の581年に再建され、桜井寺という尼寺になります。
この一帯にあった「豊浦宮」で推古天皇が即位し、603年に「小墾田宮」へと移りました(小墾田宮跡は、現在の豊浦寺跡から200mほどの距離にあります)。その際に、小墾田宮も土地にあった桜井寺を現在地へ移動させ、名前を豊浦寺と改めました。平安時代以降は衰退し、江戸時代になると、現在同地に建つ「向原寺」が建立されました。
豊浦寺跡の発掘調査が進められ、1993年には、大規模な金堂跡があったことが判明。伽藍配置も飛鳥寺式伽藍(塔を中心に3つのお堂で囲むもの)であったと類推されています。
向原寺のすぐ隣には、百済の聖明王から贈られた金銅の釈迦仏を、物部尾輿が投げ込んだとされる「難波池」の案内があります。
この仏像は、この地を通りかかった、信濃の国の本田善光という人物が発見し、長野の善光寺に祀られたという伝承もあるのだとか。
奈良盆地の広がりがよく分かる。
左に畝傍山、右端に耳成山。
正面むこうに生駒連山。
甘樫丘の真下に見える集落が“豊浦”。
“豊浦”にある寺は、もちろん『豊浦寺』。
『豊浦寺』とは、日本最初の寺(創建年の解釈によっては飛鳥寺に次ぐ2番目のお寺となります)とも呼ばれ、飛鳥五大寺の一つにも数えられたお寺でした。
「日本書紀」の記述では、552年、百済の聖明王から金銅の釈迦仏などが献上された際に、物部氏や中臣氏らの反対を抑え、蘇我稲目が向原の自宅に持ち帰り、それを寺として安置したことが始まりとされています。
しかし、その後に疫病が流行。これを国神の祟りとして排仏派たちは、仏像を難波の堀江に流し、寺を焼き払いました。後の581年に再建され、桜井寺という尼寺になります。
この一帯にあった「豊浦宮」で推古天皇が即位し、603年に「小墾田宮」へと移りました(小墾田宮跡は、現在の豊浦寺跡から200mほどの距離にあります)。その際に、小墾田宮も土地にあった桜井寺を現在地へ移動させ、名前を豊浦寺と改めました。平安時代以降は衰退し、江戸時代になると、現在同地に建つ「向原寺」が建立されました。
豊浦寺跡の発掘調査が進められ、1993年には、大規模な金堂跡があったことが判明。伽藍配置も飛鳥寺式伽藍(塔を中心に3つのお堂で囲むもの)であったと類推されています。
向原寺のすぐ隣には、百済の聖明王から贈られた金銅の釈迦仏を、物部尾輿が投げ込んだとされる「難波池」の案内があります。
この仏像は、この地を通りかかった、信濃の国の本田善光という人物が発見し、長野の善光寺に祀られたという伝承もあるのだとか。
明日香付近の模型ですか???
国立飛鳥資料館にあったかな???
探しておきます!
この景色、畝傍山と耳成山の間に藤原京が栄えていた時代があったのでしょう。
ちょうど、背中の方角が都が去ってしまった飛鳥。
さらに後には、藤原京が奈良へと遷っていくのですよね。
その時から、奈良盆地の南部は歴史から取り残された状態で・・・
昔の天皇さんが眺められた景色ですね。平城宮の大極殿の2階から眺めても、当時は高い建物がなかったはずだから、それなりに見渡せただろうと思います。