甘樫丘から北東(三輪山)の方角を眺めた。
写真右手前の集落は、明日香村“奥山”。
このあたりに昔、“奥山久米寺”があったという。
奥山久米寺は謎の寺院である。
昭和62年(1987)に実施された発掘調査で、塔、金堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍様式を採用した寺院だったことが判明している。
出土瓦からは、7世紀前半に造営された古代寺院と推測されている。
塔跡基壇上に残る10個の立派な礎石は、現在飛鳥に残っている礎石の中でも最大のものであり、かつてこの場所に壮大な五重塔があったことをうかがわせる。
金堂跡の基壇の大きさは東西幅23.4m(80尺)、南北幅約18m(60尺)と推定されている。この基壇の規模は、川原寺中金堂の東西約24m、南北約19.2mにほぼ匹敵する。
以上のことから、飛鳥期の寺院中でも一級の規模・構造・内容をもつ寺院がこの地にそびえていたことは、疑う余地がない。
伝承では、聖徳太子の弟の久米皇子の創建と言われている。しかし、寺の名前や発願者の名前はおろか、寺院の存在すら記録した文献が残っていないため、沿革不詳としか言いようがない。
塔跡には、相輪部分が欠けた高さ約4.8mの十三重石塔が現在立っている。鎌倉時代に建造されたとのことである。
写真右手前の集落は、明日香村“奥山”。
このあたりに昔、“奥山久米寺”があったという。
奥山久米寺は謎の寺院である。
昭和62年(1987)に実施された発掘調査で、塔、金堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍様式を採用した寺院だったことが判明している。
出土瓦からは、7世紀前半に造営された古代寺院と推測されている。
塔跡基壇上に残る10個の立派な礎石は、現在飛鳥に残っている礎石の中でも最大のものであり、かつてこの場所に壮大な五重塔があったことをうかがわせる。
金堂跡の基壇の大きさは東西幅23.4m(80尺)、南北幅約18m(60尺)と推定されている。この基壇の規模は、川原寺中金堂の東西約24m、南北約19.2mにほぼ匹敵する。
以上のことから、飛鳥期の寺院中でも一級の規模・構造・内容をもつ寺院がこの地にそびえていたことは、疑う余地がない。
伝承では、聖徳太子の弟の久米皇子の創建と言われている。しかし、寺の名前や発願者の名前はおろか、寺院の存在すら記録した文献が残っていないため、沿革不詳としか言いようがない。
塔跡には、相輪部分が欠けた高さ約4.8mの十三重石塔が現在立っている。鎌倉時代に建造されたとのことである。
>山田寺???金屋の石仏???きいたような???
金屋は山辺の道の出発点です。
そこから北へ奈良まで続いているのです。
昔、船は大阪から大和川を遡って、三輪山の麓の金屋あたりに着いたそうです。
そこから飛鳥の都へは山田道を通ったのでしょう。
まだまだ大地の下に遺跡が残っているんでしょうね。
民家の下にも遺跡が眠ってる地帯でしょう。