8月6日です。今日も長文ですよ!読みにくくてごめんなさい。
ホテルの朝食は早く、6時から始まりました。
だからわたしもいそいそ食べて、生活クラブのほかの参加者の何人かと平和公園めざして歩きました。
広島城の前を通り、川にぶつかったら川沿いを南へ。
だんだん原爆ドームが近づいてきます。
7時前だというのに、公園周辺は人の波。
迷子になりそうなくらいごったがえしていました。
原爆記念式典には、並べば椅子に座れると聞いたけれど、
9時から広島城周辺のフィールドワークを予約していたこともあり、
椅子はあきらめロープがはられた立ち見スペースから見ることにしました。
立ち見の場所も、どんどん人で埋まっていきます。
警備の数も半端な人数ではなくて
警官も、市の職員も、総動員じゃないの?と思うくらい。
木陰だから涼しかったけど、式典で真ん中に立つ人は、10センチくらいの大きさに見えました。
おまけにセミ達が、耳がおかしくなりそうなくらい元気だったので、聞こえないかもと心配になりました。
でも聞こえました。
会場に着くまでには、
無料のおしぼりサービス所、車椅子サービス所、飲み水サービス所などがあちこちにありました。
配布された式典のプログラムをみてみます。
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式
HIROSIMA PEACE MEMORIAL CEREMONY
平成22年(2010年)8月6日
August 6,2010
広島市
式次第では8時にはじまり、市長と遺族の代表が死没者の名簿を奉納、
市議会議長が式辞を述べ
市長やこども代表や被爆者代表による献花のあと、黙とう。
市長の平和宣言が行なわれ、放鳩。(ほうきゅう、って読むのかな・・・)
こども代表による平和への誓い
内閣総理大臣と、県知事と、国連事務総長のあいさつのあと、
ひろしま平和の歌を合唱して
45分に閉式となっていました。
冊子には市議会議長の式辞、市長の平和宣言、こども代表の平和への誓いと、歌の楽譜が
すべて英語と並列で記されており
藩基文国連事務総長のあいさつ文の日本語訳がプリントで裏表と、
参列国一覧(8月2日現在)のプリントと、
金色の小さな折り紙と、折り方の書かれた紙(日本語英語)が入っていました。
私たちの立っていた芝生のそばを、黒塗りの車が数台、滑りこんできて停まりました。
「首相だ」「菅さんだ」
口々にあちこちから声があがります。
黒いスーツがずらずらずらと数人で列になって、会場の一番前方から、すでに満員になった客席へと入って行きました。
じゃわじゃわじゃわ!と大音量のセミたち。
「しかしうるさいな」
「静かにしろ」
「始まったら黙るかも」
くすくす笑いが起きます。
8時15分に黙祷。
セミたちは相変わらずです。
65年後の今、わたしたちは
落ちて来たものが何で、
落ちた後みんながどうなったか知っているけれど
65年前の人は、なにもわからなかった。
そして8時15分のあとにつづくことも。
なんだか、いつもエヌエチケイなんかでしか見たことなかった映像が、生で、すぐそばで行われてるので
ほんとに広島に来られたんだなーとちょっと不思議な感慨でした。
やっぱり、秋葉市長さんは、力強いアピールでした。
広島の人が「今回は方言をまじえたいい文章になるらしい」とうわさしていたけれど
広島の人達は毎年期待をこめて聞いているのでしょうね。
5月のNYでの核拡散防止条約再検討会議の最終文書に、
期限を区切った核廃絶への取り組みへの賛同が盛り込まれたことを評価し
核の傘からの離脱を政府に求めました。
菅さんは、遠目でも直立で、原稿から目をほとんどはなさない感じ。
潘さんは、遠目でも身振り手振りが大きくて、パフォーマンスにたけた人物という感じ。
原稿よりも会場をよく見ながら話していました。
自分の少年時代は朝鮮戦争のさなかで
故郷を後にして逃げなければならなかった経験から、一生を平和のために捧げてきたという言葉から始まり、
核兵器のない世界をかならず実現させるという決意を表明しました。
当日、翌日の広島の新聞は、こぞって潘さんの訪問をとりあげていました。
広島のテレビ局もしかり。
菅さんは?かげうすかったです。
式典では「被爆者を平和特使に」とか
「核軍縮の先頭に立ち行動したい」だったのに、
あとのニュースは皆を失望させました。
被爆者の方から娘が
「毎年首相は、何を言っても頼りなくて、はらはらして、もどかしい」と聞いたそうです。
日本は、だって、アメリカと組んで世界有数の軍事国だものね。
いくら軍縮と口では言ったって、なかなかだよね・・・。
このギャップを、毎年広島の人はどう思うのでしょう。
今年は74カ国の代表が集まり
52000人の参加があったという報道だったけれど
日本政府が核軍縮の先頭に立ってリーダーシップをとってきたわけではないことに
複雑な思いです。
9時からの広島城周辺めぐりに続きます!
ホテルの朝食は早く、6時から始まりました。
だからわたしもいそいそ食べて、生活クラブのほかの参加者の何人かと平和公園めざして歩きました。
広島城の前を通り、川にぶつかったら川沿いを南へ。
だんだん原爆ドームが近づいてきます。
7時前だというのに、公園周辺は人の波。
迷子になりそうなくらいごったがえしていました。
原爆記念式典には、並べば椅子に座れると聞いたけれど、
9時から広島城周辺のフィールドワークを予約していたこともあり、
椅子はあきらめロープがはられた立ち見スペースから見ることにしました。
立ち見の場所も、どんどん人で埋まっていきます。
警備の数も半端な人数ではなくて
警官も、市の職員も、総動員じゃないの?と思うくらい。
木陰だから涼しかったけど、式典で真ん中に立つ人は、10センチくらいの大きさに見えました。
おまけにセミ達が、耳がおかしくなりそうなくらい元気だったので、聞こえないかもと心配になりました。
でも聞こえました。
会場に着くまでには、
無料のおしぼりサービス所、車椅子サービス所、飲み水サービス所などがあちこちにありました。
配布された式典のプログラムをみてみます。
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式
HIROSIMA PEACE MEMORIAL CEREMONY
平成22年(2010年)8月6日
August 6,2010
広島市
式次第では8時にはじまり、市長と遺族の代表が死没者の名簿を奉納、
市議会議長が式辞を述べ
市長やこども代表や被爆者代表による献花のあと、黙とう。
市長の平和宣言が行なわれ、放鳩。(ほうきゅう、って読むのかな・・・)
こども代表による平和への誓い
内閣総理大臣と、県知事と、国連事務総長のあいさつのあと、
ひろしま平和の歌を合唱して
45分に閉式となっていました。
冊子には市議会議長の式辞、市長の平和宣言、こども代表の平和への誓いと、歌の楽譜が
すべて英語と並列で記されており
藩基文国連事務総長のあいさつ文の日本語訳がプリントで裏表と、
参列国一覧(8月2日現在)のプリントと、
金色の小さな折り紙と、折り方の書かれた紙(日本語英語)が入っていました。
私たちの立っていた芝生のそばを、黒塗りの車が数台、滑りこんできて停まりました。
「首相だ」「菅さんだ」
口々にあちこちから声があがります。
黒いスーツがずらずらずらと数人で列になって、会場の一番前方から、すでに満員になった客席へと入って行きました。
じゃわじゃわじゃわ!と大音量のセミたち。
「しかしうるさいな」
「静かにしろ」
「始まったら黙るかも」
くすくす笑いが起きます。
8時15分に黙祷。
セミたちは相変わらずです。
65年後の今、わたしたちは
落ちて来たものが何で、
落ちた後みんながどうなったか知っているけれど
65年前の人は、なにもわからなかった。
そして8時15分のあとにつづくことも。
なんだか、いつもエヌエチケイなんかでしか見たことなかった映像が、生で、すぐそばで行われてるので
ほんとに広島に来られたんだなーとちょっと不思議な感慨でした。
やっぱり、秋葉市長さんは、力強いアピールでした。
広島の人が「今回は方言をまじえたいい文章になるらしい」とうわさしていたけれど
広島の人達は毎年期待をこめて聞いているのでしょうね。
5月のNYでの核拡散防止条約再検討会議の最終文書に、
期限を区切った核廃絶への取り組みへの賛同が盛り込まれたことを評価し
核の傘からの離脱を政府に求めました。
菅さんは、遠目でも直立で、原稿から目をほとんどはなさない感じ。
潘さんは、遠目でも身振り手振りが大きくて、パフォーマンスにたけた人物という感じ。
原稿よりも会場をよく見ながら話していました。
自分の少年時代は朝鮮戦争のさなかで
故郷を後にして逃げなければならなかった経験から、一生を平和のために捧げてきたという言葉から始まり、
核兵器のない世界をかならず実現させるという決意を表明しました。
当日、翌日の広島の新聞は、こぞって潘さんの訪問をとりあげていました。
広島のテレビ局もしかり。
菅さんは?かげうすかったです。
式典では「被爆者を平和特使に」とか
「核軍縮の先頭に立ち行動したい」だったのに、
あとのニュースは皆を失望させました。
被爆者の方から娘が
「毎年首相は、何を言っても頼りなくて、はらはらして、もどかしい」と聞いたそうです。
日本は、だって、アメリカと組んで世界有数の軍事国だものね。
いくら軍縮と口では言ったって、なかなかだよね・・・。
このギャップを、毎年広島の人はどう思うのでしょう。
今年は74カ国の代表が集まり
52000人の参加があったという報道だったけれど
日本政府が核軍縮の先頭に立ってリーダーシップをとってきたわけではないことに
複雑な思いです。
9時からの広島城周辺めぐりに続きます!