田んぼ仲間のそふぃさんが、
京都のおかあさんが戦中から住んでいたお家を片付けると言うので
お布団や食器などいただきたく、土日と車で行って来ました。
軽バン、カーナビ無し、ETC無し、ステレオ無し。
片道400キロをとことこ飛ばしてね。
行きは雨がざばざば車の、上から横からジェットのように吹き付けてきて、ちょっとすごかった。アトラクションの乗り物みたいでした。
夕方着いたとき、ちょうど脱原発の行動が京都でも行われているということだったので
急いで京都駅前の関西電力京都支店までかけつけました。
会社はシャッターが閉まっていて、誰もでてきません。土曜日ですからね。
でも、その支店の前でマイクで話したり、ビラを配ったりしていました。
そのうち、一足先に新幹線で京都に着いていたそふぃさん夫妻が
ぞろぞろとデモの列の中から顔を出しました。
わいわいしゃべりながら、わたしたちもビラ配りのお手伝い。
京都デモは、640人ほどが参加したようです。
一人、「反戦老人クラブ」と書かれた虹色の旗を持っている男性がいらしたので
声をかけると、昨年うちの子どもたちがヒロシマで被爆体験を伺った、米澤鐵志さんということがわかりました。
すごい偶然です!
宇治にお住まいで、京都での脱原発運動にはよく顔を出されているとのこと。
今年も8月には生活クラブのヒロシマツアーで子どもたちに体験を語ってくださいます。
米澤さんは小学5年のときに、爆心から750メートルの路面電車の中で被爆、
阿鼻叫喚の中を生き延びました。
広島福屋前電車被爆の最後の生き残りの方だそうです。
「この震災で、デモにも若い人が多く参加するようになったよ」とにこっとされていました。
そふぃさんのおうちは上京区。
引き戸を開けるとしんとして、奥に長い。
三軒長屋のひとつで、1階にも、2階にも、古くて素敵なものがたくさんありました。
箪笥も器もちょっとした机も、全部ほしいくらい。
長い年月、大事に使われてきたものの威厳や温かさを感じるものばかりでした。
夜は近くの小さな料理屋さんで、めずらしいもの、おいしいものをたくさんいただいて
(アスパラとサザエの黄身酢あん、タコと根菜の煮もの、鮎の焼き浸し、スズキの山椒焼き、ハモの吸い物、ジャコのご飯などなど)
おうちに戻ってたくさん飲んで、たくさん飲んで・・・・。
次の日、わたしは、帰る前に1か所だけでもお寺にいきたいなーと、
みんなにお願いして広隆寺に連れていってもらいました。
昨夜はみんな口々に「水を飲んで寝なさい」と言ってくれていたようですが
結局なにも摂らずに寝たようで頭がぐらんぐらんです。
こんなひどい二日酔いでお寺の仏さんに向かい合う、なんてばちあたりな!
京都、奈良のお寺は、20歳の頃仏像めぐりに訪れて以来なので
広隆寺も18年ぶりです。
弥勒菩薩さんに会いたかったのでした。
霊宝殿に入り、中学生の群れに混じりながら
あれ、こんな暗いとこにいたのか、そうだった、意外と小さくて・・・なんて見つめたら
もう目が釘付けになってしまって、体も動けなくて
金縛りのように、何分も見つめてしまっていました。
なんというか、この菩薩さんは、完璧なのです。
たたずまいも、周りの空気も、完全なんです。
言葉が出てこなくて。
ああー、となんだか涙がでてきちゃって、やっぱりここにくるだけでも価値があった、と心から感謝しました。
同じ建物に安置されている、不空羂索観音像の肉付き具合や腕のたおやかさに
20歳のわたしは電撃に撃たれたようになったのでした。
その感動は、今も同じですが、しみじみ今回は観察しました。
信仰の対象として見ることはなく、
どうしても美術品、工芸品を見るときの目で見てしまうのですが
時を超えて守られてきた、信仰のかたちが人のかたちであらわされている像、
木造や乾漆造だったりするのですが、そこに強い思念や祈りがこもっていて
人が作ったものでありながら、実はそうではないような気もします。
そういうところがわたしが仏像が好きな理由です。
嵐電の駅のホームにあるうどん屋さんで鳥なんばんを食べ、
スーパーで九条ねぎやらゆばやら豆腐やら買って、
後部座席におみやげたっぷり載せて、また400キロぶーんと、小田原まで戻ってきました。
夫はよくがんばりました。
そふぃさん、ほいさんありがとう!
また京都行きたいよ~。
京都のおかあさんが戦中から住んでいたお家を片付けると言うので
お布団や食器などいただきたく、土日と車で行って来ました。
軽バン、カーナビ無し、ETC無し、ステレオ無し。
片道400キロをとことこ飛ばしてね。
行きは雨がざばざば車の、上から横からジェットのように吹き付けてきて、ちょっとすごかった。アトラクションの乗り物みたいでした。
夕方着いたとき、ちょうど脱原発の行動が京都でも行われているということだったので
急いで京都駅前の関西電力京都支店までかけつけました。
会社はシャッターが閉まっていて、誰もでてきません。土曜日ですからね。
でも、その支店の前でマイクで話したり、ビラを配ったりしていました。
そのうち、一足先に新幹線で京都に着いていたそふぃさん夫妻が
ぞろぞろとデモの列の中から顔を出しました。
わいわいしゃべりながら、わたしたちもビラ配りのお手伝い。
京都デモは、640人ほどが参加したようです。
一人、「反戦老人クラブ」と書かれた虹色の旗を持っている男性がいらしたので
声をかけると、昨年うちの子どもたちがヒロシマで被爆体験を伺った、米澤鐵志さんということがわかりました。
すごい偶然です!
宇治にお住まいで、京都での脱原発運動にはよく顔を出されているとのこと。
今年も8月には生活クラブのヒロシマツアーで子どもたちに体験を語ってくださいます。
米澤さんは小学5年のときに、爆心から750メートルの路面電車の中で被爆、
阿鼻叫喚の中を生き延びました。
広島福屋前電車被爆の最後の生き残りの方だそうです。
「この震災で、デモにも若い人が多く参加するようになったよ」とにこっとされていました。
そふぃさんのおうちは上京区。
引き戸を開けるとしんとして、奥に長い。
三軒長屋のひとつで、1階にも、2階にも、古くて素敵なものがたくさんありました。
箪笥も器もちょっとした机も、全部ほしいくらい。
長い年月、大事に使われてきたものの威厳や温かさを感じるものばかりでした。
夜は近くの小さな料理屋さんで、めずらしいもの、おいしいものをたくさんいただいて
(アスパラとサザエの黄身酢あん、タコと根菜の煮もの、鮎の焼き浸し、スズキの山椒焼き、ハモの吸い物、ジャコのご飯などなど)
おうちに戻ってたくさん飲んで、たくさん飲んで・・・・。
次の日、わたしは、帰る前に1か所だけでもお寺にいきたいなーと、
みんなにお願いして広隆寺に連れていってもらいました。
昨夜はみんな口々に「水を飲んで寝なさい」と言ってくれていたようですが
結局なにも摂らずに寝たようで頭がぐらんぐらんです。
こんなひどい二日酔いでお寺の仏さんに向かい合う、なんてばちあたりな!
京都、奈良のお寺は、20歳の頃仏像めぐりに訪れて以来なので
広隆寺も18年ぶりです。
弥勒菩薩さんに会いたかったのでした。
霊宝殿に入り、中学生の群れに混じりながら
あれ、こんな暗いとこにいたのか、そうだった、意外と小さくて・・・なんて見つめたら
もう目が釘付けになってしまって、体も動けなくて
金縛りのように、何分も見つめてしまっていました。
なんというか、この菩薩さんは、完璧なのです。
たたずまいも、周りの空気も、完全なんです。
言葉が出てこなくて。
ああー、となんだか涙がでてきちゃって、やっぱりここにくるだけでも価値があった、と心から感謝しました。
同じ建物に安置されている、不空羂索観音像の肉付き具合や腕のたおやかさに
20歳のわたしは電撃に撃たれたようになったのでした。
その感動は、今も同じですが、しみじみ今回は観察しました。
信仰の対象として見ることはなく、
どうしても美術品、工芸品を見るときの目で見てしまうのですが
時を超えて守られてきた、信仰のかたちが人のかたちであらわされている像、
木造や乾漆造だったりするのですが、そこに強い思念や祈りがこもっていて
人が作ったものでありながら、実はそうではないような気もします。
そういうところがわたしが仏像が好きな理由です。
嵐電の駅のホームにあるうどん屋さんで鳥なんばんを食べ、
スーパーで九条ねぎやらゆばやら豆腐やら買って、
後部座席におみやげたっぷり載せて、また400キロぶーんと、小田原まで戻ってきました。
夫はよくがんばりました。
そふぃさん、ほいさんありがとう!
また京都行きたいよ~。