うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

屯鶴峯の地下壕

2013-10-28 | Weblog
どんづるぼう、と読みます。

こんなとこですよ。


「第二次世界大戦中に造られた複雑な防空壕があることでも知られる。本土決戦を目前にした陸軍が航空部隊・航空総軍の戦闘司令所として建設されたもので、二つの壕に分かれている。 現在、防空壕の一部は京都大学防災研究所附属地震予知研究センター屯鶴峯観測所として使用されており、地震予知研究計画の一環として地殻変動の連続観測が実施されている。」


ここの見学会があって、団体さんで行ってきました。(単独でいくのはだめです。私有地ですし、危険な箇所もあります)


旧陸軍の航空総軍の指令所だったのではないかと言われていますが、機密だったため、資料はほとんど見つかっていないのです。
敗戦を迎えるまでの3ヶ月の工事期間だったにも関わらず、トンネルは全長2キロにも及びます。

この壕の掘削を担わされたのは朝鮮人たちでした。
朝鮮人兵士が「軍令」で地下施設の掘削工事にあたっていたことが文献で証明された初めてのケースと、92年の奈良日日新聞には書かれています。




集合場所から車に分乗して、葡萄畑のひろがる山に向かいました。
山の急斜面をロープを伝って登っていきます。途中小川も渡ります。
機密の場所だったゆえ、外からはまったくみえません。人も訪れないような険しいところに壕が作られたのがわかります。


防空壕の入り口のような穴があらわれ、わたしたちは長靴を履き、懐中電灯を装備して中に入りました。


トンネル内部は高さが3メートル以上あり、幅は3.5メートルから6メートルある場所も。
一部は現在京都大学の防災研究所が使用しているそうです。



慶応大学の敷地内にある日吉の地下壕と違って、コンクリートで舗装はされておらず、湿った土のトンネルでした。
あちこちに大きな水たまりがありました。


電灯もなく、懐中電灯の明かりも届かない、深い壕であり、
途中崖のように上にのびた通路や、壁に出来た窪んだ穴のような空間などが目をこらすとかすかに認められるのでした。

窪んだ穴は、発破をかける際の待避場所らしいのですが、人ひとり入れるかどうかの大きさでした。


ツルハシの痕が残っていました。
掘削の方法は削岩機と発破の使用と、細部はツルハシによる手作業です。
掘る作業、土を運び出す作業、発破をかける作業など重労働は朝鮮人兵士が担わされた、というのが案内してくださった方の説明でした。


掘削にあたった元日本人兵士の証言によれば、作業したのは東海軍管区の日本人14人と、朝鮮人兵士100人によるものと言いますが。
わずか3ヶ月でその人数では不可能な規模だと感じます。
付近の義勇軍の参加もあるだろうとのことですが、名簿に残っていない、数に入れられていない、強制的に連行された朝鮮人たちの存在もあるのではないかとわたしは考えます。


この壕は陸軍が本土決戦に備え建設を急いだ戦闘指令所だったのではとのこと。
本土決戦での特攻隊作戦の指揮は海軍が奈良の大和航空基地(柳本飛行場)、陸軍は大阪の大正飛行場付近で執られる予定だったといいます。
柳本飛行場の建設にさいしても、1000人規模の朝鮮人が強制連行され、使役されました。


正確には何人連行されて、何人亡くなったのか、遺体はどうなったのか、なにもわかりません。なんの碑もありません。



朝鮮人兵士たちは、バラックに泊まらされたといいます。日本人兵士は付近の住民の家やお寺に。
当時、壕の入り口付近には三棟の豪壮な建物もあったそうです。
本土決戦になった際にはここに三笠宮を招き入れるとの噂もあったそうですが、真相はわかりません。
天理の柳本飛行場で天皇を迎えようとしていたのと関係があるのかもしれません。



今は付近にはそんな歴史を思わせる面影は何も残っていません。


米軍上陸の際には柳本飛行場を特攻の基地にするという計画があり、それと同時に遷都の計画も練られていたそう。
天皇を特攻隊の見送りのために一時的に奈良に移し、その後松代に移動すると。

やっぱり天皇の軍隊です。奈良は繋がりが深いなあとあらためて。



かかわった朝鮮人の平均年齢はおそらく30代前後ではないか、と案内してくれた先生。
働き盛りだったでしょう。子どもがあった人もいたでしょう。胸がつぶれる思い。


彼らの遺したものは、今も克明なツルハシの痕だけなのでしょうか。





忘れたままでいいの?といつも思う。
人を踏みつけにしたうえの繁栄の上に生きてきた、といつも思う。