日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

人間関係

2017-09-01 08:16:53 | 日記
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。」第一ヨハネ3:1a



最近人から聞いた事ですが、日常色んな人と話ます。人其々、性格、生活状況、過去の出来事、育った環境、思想其々違います。聞きたくない話もあるでしょう。また自分の状況でグサと傷付く事もあるでしょう。私達いくら親しくてもその人の60%しか解らないかもしれません。挨拶程度の人には1%位しか解らない。時には0%解らない人が多い。で話さなければならない場合もある。



これが普通の人になら細心の注意を払い話すと思います。これがクリスチャン同志ならよく会いますから、よく話すし、日々傷つけるかもわからない。しかしメッセージを聞き、聖書をよみますから、お互いに赦し合わねばなりません。お互いに赦し合い、主を見あがるのがクリスチャンと思います。



クリスチャンといってもその人により、まだ信仰面が浅い場合、その人の性格や状況を考慮して話す事も大事でしょう。



クリスチャン同志なら、人間の持つ罪を認めていますから、赦し合う。これほど大事な事はありません。そしてもし自分が悪かった!と思えば、「ごめんなさい。」と言えばいいでしょう。



イエス様が十字架にかかられる前、弟子達の足を洗われた。足を洗うのは当時奴隷のする仕事だったのです。イエス様は自分をそれ程低くし、弟子にも仕えられました。我々もお互いに仕え合う事が大事です。お互いに足を洗う事が大切なのです。



自分の事をいいますと、認知症の1歩手前。考えが及ばなく、頭の回転も遅い。忘れます。失敗が付きまといどうにもなりません。私の例は極端ですが、人は限界だな、と思うのは人のすべてが解らない。解ると思ってるのはそれは傲り。クリスチャン同志であれ、そうでない人であれ、十字架の主の御名により許さないと回りの平和は来ません。赦す事はつらい事でもありますが、自分も十字架で多くを赦されているのですから。



草津白根山でしばし雫を見とれていました。

上の言葉
被造物でありながら、造物主なる神様をわすれて、自分勝手に生きていた私たちを、創造の初めの姿に戻すため御子を世に送ってくださいました。『神の子』とするためです。み子は罪人となり、十字架に命を捨て、父なる神様の愛を見せてくださいました。これほどまでにあなたを愛しているものはいません。この愛を決して忘れないで下さい。今日も、神様はあなたを神の子として目を留めています。(KE)