以前は「アンチ新歌舞伎」派だったわたし!実際、このブログを始めたときも大悪口大会の記事を書きかけたくらいでしたからね~。でも、わたしも多少丸くなったというか、「元禄忠臣蔵」がそれなりに優れた構成力を持っていることや、新歌舞伎には新歌舞伎なりの台詞の音楽性があると思うようになり、以前に比べれば多少寛容にはなりました。で、今月の国立劇場は新歌舞伎特集。わたしの新歌舞伎にたいする考え方と併せて、舞台の感想を書こうと思います。
ところで、新歌舞伎とは何か?ウィキペディアの定義をそのまま引用すると、
>新歌舞伎(しんかぶき)とは、「明治以降に、劇場とは独立した作家が書いた歌舞伎作品」
ということですが、ま、明治以後に書かれた歌舞伎作品で、江戸時代に書かれたような作品とはタイプの違う、西洋戯曲の影響を受けた作品ということなんじゃないですかね?(江戸時代から活躍した河竹黙阿弥なんかは明治以後も活躍しているので、明治以後の歌舞伎作品全般が新歌舞伎とはいえないわけです。)
で、上記の一般的な定義とは別に、わたしの新歌舞伎観を披瀝すると、
・基本は男が主役の芝居
・そして、男がうじうじ悩んで独白する芝居
・従来の七五調子のリズムをぶった切った台詞の芝居
・悲劇志向の芝居
(歌舞伎はほとんど悲劇ですが、新歌舞伎は悲劇にたいしてセンチメンタル。それまでの芝居は悲劇にたいして楽天的。)
さて、そんなことを念頭に、今回の芝居の感想を書くと・・・。
*括弧のなかは原作者です。
①「頼朝の死」(真山青果)
鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の死をめぐる政治ドラマ。「頼朝の死」の真相を政治的に隠そうとする尼将軍政子と、二代目将軍源頼家の苦悩。といった感じの話ですよね、この芝居。
今回の頼家は吉右衛門、尼将軍政子は富十郎。薄幸のカップル、畠山六郎重保&小周防は、それぞれ歌昇と芝雀。
まず、舞台にひきつけていうと、歌昇の重保はかなりの熱演、好演で、重保が小周防を斬るところの「青春の悔恨」みたいな場面なんか、胸を打つものがありました。
また、芝雀の小周防もこの人のニンに合った罪のない役柄。吉之丞の侍女に連れられてくる場面から、悲劇のヒロインらしい雰囲気がありました。お父さんの雀右衛門同様、このひとはカワイイ系の女形だとわたしは思うので、幸薄い役は似合うんですよね~(もっとも、今月は三つ目の芝居がまた違うんだけど・・・。)。
で、主演の吉右衛門=頼家ですが、わたしはいまひとつのれなかったなあ~。
この役って、中村梅玉の当たり役になっていて、貴公子の苦悩みたいな芝居というイメージが、わたしのなかでできあがっているからなのかな~。
吉右衛門だと、貴公子という感じはなくて、堂々たる貴族くらいの貫禄があるし、雰囲気でいったら吉右衛門の当たり役のひとつ「一條大蔵卿」の大蔵卿みたいなふくよかさがある。
ただ、生硬な青臭い台詞を非音楽的に朗々とやるのが、真山青果物の「音楽」だという気がするんですよね~。
それでいうと、真山青果の<非音楽的な音楽>を、吉右衛門の<古典的な音楽的台詞>に無理やり翻訳してるような印象…。
どうもわかりにくい表現だったかもしれないのだけど、新歌舞伎ってクラシックでいうと新ウィーン楽派みたいな、無調音楽みたいな感じがあるんですよね。それを古典音楽のロマン主義的解釈で演奏したカラヤンのCDというのがあって、それを連想させたのが今回の吉右衛門の頼家かなあ~というのがわたしの感想です。(どうも、ややこしい言い方だな~。)
つまり、青果調を無理やり吉右衛門風にした台詞が、さすがに播磨屋!と思わせた反面、従来の梅玉あたりの真山青果物イメージとはずいぶん違う。
今回の舞台は、ある意味、真山青果物の新展開なのかもしれませんが、わたしにはまだ消化しきれませんでしたね。ただ、吉右衛門による再演は是非見てみたいですけどね。どんな深化をみせるのか…。
なお、この舞台の一番の見ものは富十郎の尼御台政子。重保を見つめる鋭さ、槍を持ったときの激しい気合。台詞の立派さ。大きな舞台でしたね。ただ、富十郎の尼御台は、歌右衛門あたりの女形の芸とは違う、立ち役役者の芸だとは思いますけれど。
というわけで、なかなか、いい意味で問題作だと思いました。
②「一休禅師」(坪内逍遥)
中村富十郎と娘の渡邊愛子ちゃん、中村魁春による舞踊劇。
一休と地獄太夫と名乗る遊女との禅問答を描いた演目です。
愛子ちゃんは「かむろ」の役でしたが、ずいぶんちゃんと踊れるようになりましたね。五月の矢車会の芝翫との舞踊「雪傾城」のときからさらに成長した感じ。将来どうなるんでしょうね~。
魁春の地獄太夫は、その陰気で思わせぶりな雰囲気でとてもあっていたと思います。
そして、富十郎。膝が悪いので起き上がるときが大変そうでしたが、やはり踊りの名手。もちろん、元気な頃の舞踊とは違いますが、円熟味がありました。
2009年は富十郎大当たりの年だったなあ~。
③「修禅寺物語」(岡本綺堂)
この芝居も久々に見ましたね~。
芸術至上主義の面作り職人・夜叉王と二人の娘。そこに薄幸の将軍源頼家の運命を重ねた有名な戯曲ですね。
今回は夜叉王を吉右衛門。姉妹を芝雀と高麗蔵。頼家を錦之助。妹娘の婿・春彦を段四郎。
あんまりニンじゃないと思われた傲慢な姉かつら役の芝雀だけど、わりとよかったですね。こういう役もいけるんだって感じで、意外性ありました。でも、やっぱり、今月の一幕目みたいな芝居がこの人にあっているとは思いますけどね。
で、姉娘かつらが成り上がり根性ゆえに近づく錦之助の頼家。ここも錦之助が立派でしたね。少し軽薄っぽい貴公子役、だけどそれなりに貫禄がある殿様というイメージで、台詞回しの立派さといい、錦之助、好演でした!
そして、吉右衛門の夜叉王。かなり枯れた感じの役作りでした。なので、最後に死に逝く姉娘かつらの顔をスケッチする夜叉王の姿が、芸術至上主義というより、職人の業(ごう)というイメージにわたしには映りました。
なので、全体に落ち着いた舞台にはなってましたね~。芸術至上主義も大げさにやられると、いかにも近代っぽい、みずっぽい芝居になりますから。
脇では、あまり褒めている人がいないようだけど、将軍頼家の付き人のひとり、橘三郎の修善寺の僧が、幇間(たいこもち)的な俗っぽさを発揮して、わたしは好きだったなあ~。こういう世辞長けた生臭坊主みたいな役がうまいと、舞台が立体的になってきますよね~。
それと、いつもの老け役じゃなく若い役を難なくこなした段四郎にもちょっと驚きました。この役って、息子の亀治郎がやってもおかしくないでしょ?ま、あれで台詞がもっと確かだったら、さらに素晴らしかったんだけど、月の初めの観劇だったので、この人の場合はしょうがないか…。
というわけで、安定した渋い舞台でした。
PS:ちょっと、長くなっちゃったんで、そのうち新歌舞伎論をまた書いてみたいな~。
それと、そういえば手塚治虫の『七色いんこ』に「修禅寺物語」が出てきた回があったなあということを思い出した!興味のある方はどうぞ!
・以前書きかけた新歌舞伎批判記事。
(参考)
ところで、新歌舞伎とは何か?ウィキペディアの定義をそのまま引用すると、
>新歌舞伎(しんかぶき)とは、「明治以降に、劇場とは独立した作家が書いた歌舞伎作品」
ということですが、ま、明治以後に書かれた歌舞伎作品で、江戸時代に書かれたような作品とはタイプの違う、西洋戯曲の影響を受けた作品ということなんじゃないですかね?(江戸時代から活躍した河竹黙阿弥なんかは明治以後も活躍しているので、明治以後の歌舞伎作品全般が新歌舞伎とはいえないわけです。)
で、上記の一般的な定義とは別に、わたしの新歌舞伎観を披瀝すると、
・基本は男が主役の芝居
・そして、男がうじうじ悩んで独白する芝居
・従来の七五調子のリズムをぶった切った台詞の芝居
・悲劇志向の芝居
(歌舞伎はほとんど悲劇ですが、新歌舞伎は悲劇にたいしてセンチメンタル。それまでの芝居は悲劇にたいして楽天的。)
さて、そんなことを念頭に、今回の芝居の感想を書くと・・・。
*括弧のなかは原作者です。
①「頼朝の死」(真山青果)
鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の死をめぐる政治ドラマ。「頼朝の死」の真相を政治的に隠そうとする尼将軍政子と、二代目将軍源頼家の苦悩。といった感じの話ですよね、この芝居。
今回の頼家は吉右衛門、尼将軍政子は富十郎。薄幸のカップル、畠山六郎重保&小周防は、それぞれ歌昇と芝雀。
まず、舞台にひきつけていうと、歌昇の重保はかなりの熱演、好演で、重保が小周防を斬るところの「青春の悔恨」みたいな場面なんか、胸を打つものがありました。
また、芝雀の小周防もこの人のニンに合った罪のない役柄。吉之丞の侍女に連れられてくる場面から、悲劇のヒロインらしい雰囲気がありました。お父さんの雀右衛門同様、このひとはカワイイ系の女形だとわたしは思うので、幸薄い役は似合うんですよね~(もっとも、今月は三つ目の芝居がまた違うんだけど・・・。)。
で、主演の吉右衛門=頼家ですが、わたしはいまひとつのれなかったなあ~。
この役って、中村梅玉の当たり役になっていて、貴公子の苦悩みたいな芝居というイメージが、わたしのなかでできあがっているからなのかな~。
吉右衛門だと、貴公子という感じはなくて、堂々たる貴族くらいの貫禄があるし、雰囲気でいったら吉右衛門の当たり役のひとつ「一條大蔵卿」の大蔵卿みたいなふくよかさがある。
ただ、生硬な青臭い台詞を非音楽的に朗々とやるのが、真山青果物の「音楽」だという気がするんですよね~。
それでいうと、真山青果の<非音楽的な音楽>を、吉右衛門の<古典的な音楽的台詞>に無理やり翻訳してるような印象…。
どうもわかりにくい表現だったかもしれないのだけど、新歌舞伎ってクラシックでいうと新ウィーン楽派みたいな、無調音楽みたいな感じがあるんですよね。それを古典音楽のロマン主義的解釈で演奏したカラヤンのCDというのがあって、それを連想させたのが今回の吉右衛門の頼家かなあ~というのがわたしの感想です。(どうも、ややこしい言い方だな~。)
つまり、青果調を無理やり吉右衛門風にした台詞が、さすがに播磨屋!と思わせた反面、従来の梅玉あたりの真山青果物イメージとはずいぶん違う。
今回の舞台は、ある意味、真山青果物の新展開なのかもしれませんが、わたしにはまだ消化しきれませんでしたね。ただ、吉右衛門による再演は是非見てみたいですけどね。どんな深化をみせるのか…。
なお、この舞台の一番の見ものは富十郎の尼御台政子。重保を見つめる鋭さ、槍を持ったときの激しい気合。台詞の立派さ。大きな舞台でしたね。ただ、富十郎の尼御台は、歌右衛門あたりの女形の芸とは違う、立ち役役者の芸だとは思いますけれど。
というわけで、なかなか、いい意味で問題作だと思いました。
②「一休禅師」(坪内逍遥)
中村富十郎と娘の渡邊愛子ちゃん、中村魁春による舞踊劇。
一休と地獄太夫と名乗る遊女との禅問答を描いた演目です。
愛子ちゃんは「かむろ」の役でしたが、ずいぶんちゃんと踊れるようになりましたね。五月の矢車会の芝翫との舞踊「雪傾城」のときからさらに成長した感じ。将来どうなるんでしょうね~。
魁春の地獄太夫は、その陰気で思わせぶりな雰囲気でとてもあっていたと思います。
そして、富十郎。膝が悪いので起き上がるときが大変そうでしたが、やはり踊りの名手。もちろん、元気な頃の舞踊とは違いますが、円熟味がありました。
2009年は富十郎大当たりの年だったなあ~。
③「修禅寺物語」(岡本綺堂)
この芝居も久々に見ましたね~。
芸術至上主義の面作り職人・夜叉王と二人の娘。そこに薄幸の将軍源頼家の運命を重ねた有名な戯曲ですね。
今回は夜叉王を吉右衛門。姉妹を芝雀と高麗蔵。頼家を錦之助。妹娘の婿・春彦を段四郎。
あんまりニンじゃないと思われた傲慢な姉かつら役の芝雀だけど、わりとよかったですね。こういう役もいけるんだって感じで、意外性ありました。でも、やっぱり、今月の一幕目みたいな芝居がこの人にあっているとは思いますけどね。
で、姉娘かつらが成り上がり根性ゆえに近づく錦之助の頼家。ここも錦之助が立派でしたね。少し軽薄っぽい貴公子役、だけどそれなりに貫禄がある殿様というイメージで、台詞回しの立派さといい、錦之助、好演でした!
そして、吉右衛門の夜叉王。かなり枯れた感じの役作りでした。なので、最後に死に逝く姉娘かつらの顔をスケッチする夜叉王の姿が、芸術至上主義というより、職人の業(ごう)というイメージにわたしには映りました。
なので、全体に落ち着いた舞台にはなってましたね~。芸術至上主義も大げさにやられると、いかにも近代っぽい、みずっぽい芝居になりますから。
脇では、あまり褒めている人がいないようだけど、将軍頼家の付き人のひとり、橘三郎の修善寺の僧が、幇間(たいこもち)的な俗っぽさを発揮して、わたしは好きだったなあ~。こういう世辞長けた生臭坊主みたいな役がうまいと、舞台が立体的になってきますよね~。
それと、いつもの老け役じゃなく若い役を難なくこなした段四郎にもちょっと驚きました。この役って、息子の亀治郎がやってもおかしくないでしょ?ま、あれで台詞がもっと確かだったら、さらに素晴らしかったんだけど、月の初めの観劇だったので、この人の場合はしょうがないか…。
というわけで、安定した渋い舞台でした。
PS:ちょっと、長くなっちゃったんで、そのうち新歌舞伎論をまた書いてみたいな~。
それと、そういえば手塚治虫の『七色いんこ』に「修禅寺物語」が出てきた回があったなあということを思い出した!興味のある方はどうぞ!
・以前書きかけた新歌舞伎批判記事。
(参考)
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