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扇 千景 (おおぎ ちかげ、1933年(昭和8年)5月10日 - )
日本の女優(元宝塚歌劇団娘役)、タレント、政治家。
本名、林 寛子(はやし ひろこ)。
旧姓、木村(きむら)。 兵庫県神戸市出身。
参議院議員(5期)、参議院議長(第26代)、国土交通大臣(初代、第2代)
建設大臣(第69代)、運輸大臣(第78代)、北海道開発庁長官(第72代)
国土庁長官(第36代)、保守党党首(初代)を歴任。
旭日大綬章受章、女性初桐花大綬章受章。
靖国神社崇敬奉賛会第3代会長。
生い立ち〜宝塚・女優時代
兵庫県神戸市須磨区に銀行員の父・木村松太郎、母・みさゑの三女として生まれる。兵庫県立神戸高等学校卒業後、大学進学を望んでいたが、父親の強い希望により大学進学をあきらめる。その代わりに友人が勝手に願書を送付したために、父親への反発もあったことから、受験して合格した宝塚音楽学校に進学する。宝塚歌劇団に入団。宝塚歌劇団41期生。宝塚歌劇団在団時の愛称は(本名の寛子から)カン子。
1954年4月に『春の踊り(宝塚物語)』で初舞台を踏む。同期生に内重のぼる(元月組トップスター)、武蔵野裕美(森奈みはるの母)、白菊八千代(出雲綾の母)、日夏悠理(小山田宗徳夫人)らがいる。宝塚歌劇団の意向により、八千草薫と共に新設された映画専科に編入する。宝塚歌劇団在団中の同年10月に宝塚映画『快傑鷹 第一篇 蛟竜風雲の巻』で映画デビューを果たす。その他、テレビや映画に出演。1956年『夜霧の女』で春日野八千代の相手役で盲目の少女ジェニイを演じ、新人演劇賞を受賞。
1957年に歌舞伎役者の二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)との結婚のため退団。1958年に結婚。しばらく芸能活動から遠ざかっていた。しかし、知人の薦めにより日本教育テレビ(現・テレビ朝日)制作の単発テレビドラマ『君はいま何を見つめている』(1959年10月29日放送)に出演。この作品で第14回文部省芸術祭個人奨励賞を受賞し、再デビューする。芸能界に復帰してからは、映画やテレビドラマなどに多数出演。1965年の連続テレビ小説『たまゆら』(NHK)や1968年の『大奥』(関西テレビ)、『花は散るらん』(東海テレビ)などに出演した。
フジテレビの主婦向けワイドショー長寿番組 『 3時のあなた』で司会を4年間担当したほか、富士フイルムの 8ミリカメラのCMで 「わたしにも写せます ! 」 のフレーズが人気を集めたことも有名である。これまでに出演した映画は53作品に上る。
政治家として
1977年の参院選に自由民主党総裁・福田赳夫や幹事長・大平正芳などの要請を受け、自民党より参議院議員選挙全国区にタレント候補として初当選。自民党内では当初、福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博が率いる清和会に属した。1989年の参院選では次点で落選したが、1993年に山岡賢次が第40回衆議院議員総選挙出馬に伴う自動失職により繰上当選。1994年に同党を離党し、新生党に入党。同年12月10日の新進党結党に参加し1995年第17回参議院議員通常選挙・比例区で再選した。
新進党解党後は、小沢一郎率いる自由党結党に参画。2000年4月、与党連立政権を離脱した小沢と袂を分かち保守党党首となった。
第2次森内閣では建設大臣兼国土庁長官として初入閣、第2次森改造内閣では中央省庁再編に備え上記の両職に加えて運輸大臣、北海道開発庁長官も兼務し、中央省庁再編後は、そのまま国土交通大臣に就任した。
建設行政のイメージアップ策
建設大臣時代は、内閣支持率が低迷する中で若築建設事件で接待を受けた建設官僚の名前を公表し、建設白書や防災服デザインの見直しなどの施策を打ち出したことで、内閣のイメージアップ策に寄与した。
三宅島噴火への対処
なお、扇の初期の仕事の一つには2000年6月末から噴火し段階的に拡大していった三宅島の全島民避難(9月2日より実施)の指揮が含まれている[2]。
公共工事入札・契約適正化法の立法[編集]
後年、『建設業界』誌の対談で語ったところによれば、扇は建設畑は未知で国会に設置されている建設委員会の委員経験も無かったが、森から与えられた機会を活かし、せめて持論の「一閣僚一仕事」位は全うしようと考えた。当時、扇が気にかけていたのは職員の士気が停滞しており、一方で世間ではマスコミの報道によって「公共工事」イコール「悪」という認識が大手を振っていたように見えたことであった。
事実、上述のように扇自身も、自らの起用理由が第1次橋本内閣で建設大臣の地位にあった中尾栄一の汚職事件に起因することは意識していた。これらの問題を解決する為、汚職の原因である入札制度について世界中の事例を調査するように命じ、フランス、ドイツ、イタリアで施行されている「公共工事基本法」を参考とし、公共工事の入札の透明化を図る為、公共工事入札契約適正化法を作成することを課題とした。法案提出に当たっての問題は、公共工事の所管が各省庁に分散しており、調整作業を通常の慣行で実施した場合5年はかかると見込まれたことであった。そこで扇は森に直訴したところ、森は「扇君が建設大臣として公共工事の基本法をつくろうとしているから、関係の省庁は挙げて協力するように」と閣議で指示した。その結果、法案提出は3か月で達成され、同法は成立に至った[2][1]。
初代国土交通大臣[編集]
初代国土交通大臣としての初会見では自らを「扇の要」であると発言。首都圏の空港問題に絡めて羽田空港は地理的利便性があることを理由に「首都圏空港の国内線は羽田、国際線は成田」という原則を崩して羽田の国内・国際共用を匂わせる発言をしたが、この発言に成田空港の地位低下を危惧した千葉県が反発した。引き続き第1次小泉内閣から第1次小泉第1次改造内閣まで国土交通大臣を務めた。この間、第19回参議院議員通常選挙で史上初の非拘束名簿式・比例代表で再選し2001年9月17日に保守党党首の座を野田毅に譲った。
鹿児島線列車追突事故では、停止信号下での列車進入を許容する「無閉塞運転」存続にこだわる鉄道局に強い指導性を発揮し、通信手段確保により「列車指令の許可のない無閉塞運転の禁止」(=閉塞指示運転採用)を決めさせている。共産党瀬古由起子議員の質問通告を受けて、JR九州・西日本・東海を翻意させ、同種事故を繰り返させた省庁としての監督責任追及質問をかわしたが、国会質問を介して、両者(扇&瀬古)とも自分の専門ではない技術分野に具体的に踏み込んで省庁側見解を改めさせた珍しい例である。(その対極が第3代国土交通大臣北側一雄で、同じ鉄道局相手に技術部門に全く相談せずに記者会見で方針をぶち挙げてしまい、福知山線の運転再開を無用に遅らせ、2週間ほど後に派手に打ち上げたATS-P換装義務化を全面否定する答弁を委員会で行った)
自民党への復党[編集]
その後、保守新党を経て2003年11月21日に保守新党が解党すると総理総裁小泉純一郎・自民党幹事長安倍晋三の誘いで9年7か月振りに復党。2004年7月30日に参議院議長人事では大方の予想で有力視されていた中曽根弘文ではなく扇が選出される(衆参両院では土井たか子に次ぎ二人目の女性の立法府の長)。2007年5月、次期参院選への不出馬を宣言、政界からの引退を表明し同選挙で扇を慕う自民党新人義家弘介や森雅子や西田昌司が当選。引退後は夫と2人で互助新婚生活をしてみたいと語った。
国土交通大臣時代、「宝塚歌劇団」「梨園の妻」「政治家」の中で一番大変だったのはどれかとの問いに、躊躇なく「宝塚歌劇団」と発言している。
称号はフランス共和国のボージョレーワイン委員会とフランス食品振興会認定コンパニヨン・デュ・ボージョレー騎士。
夫である四代目坂田藤十郎(本名: 林宏太郎)との間に、長男・歌舞伎役者の五代目中村翫雀(本名: 林智太郎)、次男・三代目中村扇雀(本名: 林浩太郎)の二人の息子がいる。また夫の妹に中村玉緒がいる。
公的場面での通名(芸名)使用[編集]
国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められているが、大臣・政務次官等に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。このため、参議院議長としては公式にも芸名の扇千景が用いられ、国土交通大臣等の行政官としても記者会見・ウェブサイト・テレビ出演等一般広報のような権力行使が直接伴わない場面では芸名が用いられたが、大臣任命の官記、大臣名義の公文書等の発出・署名など権力・権限に関連する部分ではすべて本名(林寛子)が用いられた。
閣議口頭了解(2000年7月4日)は次のとおりである。
建設大臣・国土庁長官である扇千景(本名:林寛子)国務大臣の名前については、今後、政府代表等への任命行為及び許可等対外的な法律上の行為については林寛子名を使用し、それ以外は扇千景名を使用することとする。
2013 08 22 莫迦チョン 【わが郷】
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