平成25年6月22日(土) 久しぶりの晴天で、どこかへ行きたいなと思い、考えた結果、大江広元ゆかりの城、片倉城にした。
横浜線の駅名になっていて、以前から気になっていた城だ。1年前くらい前に行った「頼朝の墓」の近くに、この大江広元の墓もあり、その時に、千ちゃんから「大江広元のゆかりのある城が片倉にある」ということを聞いていたので、いつか機会があったらと思っていた。
また、その行く途中の八王子の「鑓水」というところに、「絹の道資料館」という看板があり、蚕のことも興味があるので、帰りに寄ってみた。
そこでは、何と以前職場で一緒に働いていた人の先祖さんが展示してあって、驚いた。全くもって奇遇である。
では、まずは、片倉城から行ってみよう。
朝早く出かけたにもかかわらず、10台くらい入る駐車場はもういっぱい状態で、「何でこんな相模原の外れの片倉城にたくさん人が来るのかしら?」と疑問に思いながら、やっとこさ最後の1台に滑り込んで、公園内に入る。
市内の人の作品の彫塑が並ぶ中、城の本丸跡に続く坂道を上る。そこで目にしたのが、直径15センチはあるだろうか、大きな望遠レンズをつけ、シャッターレンズを狙っている、カメラ小僧?の人たちが、狭い山道の片側にびっしりと並んでいる光景。鷹か鷲かはっきりしないがどうも猛禽類の巣立ちを狙っているらしい。だから駐車場も混んでいたんだと納得した。
片倉城は大江広元の子孫である長井氏が室町時代に築城したらしい。また、北条氏照は三増合戦に行くときに、ここに立ち寄って、部隊を整えたらしい。
城自体はないが、本丸・二の丸が芝生が敷き詰められた公園になっていた。
本丸と二の丸の間に、橋がかかっていて、その下は空堀になっていた。
「人間は考える葦である」とパスカルが言ったが、その葦が生えていた。
片倉城の帰りに、絹の道資料館へ立ち寄る。
この辺の地域(鑓水地区)は昔から養蚕で生計を立てていたらしい。
絹の道は、その商品を、横浜に運ぶために、鉄道が発達する明治の中頃まで、実際に生糸商人たちが通った道であるらしい。
館内には養蚕の歴史や工程・尽力した人たちが細かに説明してあった。
写真を撮ってきたので、貼り付けることにする。
津久井の年表も展示していたので、貼り付けることにする。
明治41年に横浜線が開通したことも分かり、それまではこの「絹の道」を使って、生糸を運んでいた。貿易の不均等を分かっていても、それを受け入れざる負えない開港間際の日本、豪商と呼ばれる人たちが土地を求めて海を埋め立てようした話もあり、様々なことが立ち寄ったことでわかった。
横浜線の駅名になっていて、以前から気になっていた城だ。1年前くらい前に行った「頼朝の墓」の近くに、この大江広元の墓もあり、その時に、千ちゃんから「大江広元のゆかりのある城が片倉にある」ということを聞いていたので、いつか機会があったらと思っていた。
また、その行く途中の八王子の「鑓水」というところに、「絹の道資料館」という看板があり、蚕のことも興味があるので、帰りに寄ってみた。
そこでは、何と以前職場で一緒に働いていた人の先祖さんが展示してあって、驚いた。全くもって奇遇である。
では、まずは、片倉城から行ってみよう。
朝早く出かけたにもかかわらず、10台くらい入る駐車場はもういっぱい状態で、「何でこんな相模原の外れの片倉城にたくさん人が来るのかしら?」と疑問に思いながら、やっとこさ最後の1台に滑り込んで、公園内に入る。
市内の人の作品の彫塑が並ぶ中、城の本丸跡に続く坂道を上る。そこで目にしたのが、直径15センチはあるだろうか、大きな望遠レンズをつけ、シャッターレンズを狙っている、カメラ小僧?の人たちが、狭い山道の片側にびっしりと並んでいる光景。鷹か鷲かはっきりしないがどうも猛禽類の巣立ちを狙っているらしい。だから駐車場も混んでいたんだと納得した。
片倉城は大江広元の子孫である長井氏が室町時代に築城したらしい。また、北条氏照は三増合戦に行くときに、ここに立ち寄って、部隊を整えたらしい。
城自体はないが、本丸・二の丸が芝生が敷き詰められた公園になっていた。
本丸と二の丸の間に、橋がかかっていて、その下は空堀になっていた。
「人間は考える葦である」とパスカルが言ったが、その葦が生えていた。
片倉城の帰りに、絹の道資料館へ立ち寄る。
この辺の地域(鑓水地区)は昔から養蚕で生計を立てていたらしい。
絹の道は、その商品を、横浜に運ぶために、鉄道が発達する明治の中頃まで、実際に生糸商人たちが通った道であるらしい。
館内には養蚕の歴史や工程・尽力した人たちが細かに説明してあった。
写真を撮ってきたので、貼り付けることにする。
津久井の年表も展示していたので、貼り付けることにする。
明治41年に横浜線が開通したことも分かり、それまではこの「絹の道」を使って、生糸を運んでいた。貿易の不均等を分かっていても、それを受け入れざる負えない開港間際の日本、豪商と呼ばれる人たちが土地を求めて海を埋め立てようした話もあり、様々なことが立ち寄ったことでわかった。
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