平成30年5月4日、ゴールデンウィーク真っ只中の快晴のこの日、友人から「町田市の鎌倉古道を探索しよう(マップ付き)」の本を貸してもらっていて、なおかつ地図はカラーコピーしていたので、1度行ったことはあるが、もう一度行ってみようと車で探索に出かけてみた。
まずは、小野神社。小野篁(おののたかむら)の7代後の子孫が建てたという神社で、由緒正しき格式ある神社だと感じた。
この近くには「小野路宿」があり、交通の要所である。
「小野路」の地名の由来は、平安時代に、牧場地帯「小野牧」(現在の八王子市から日野市や多摩市、町田市北部)への入り口だったからとか、武蔵七党の一つ横山党の祖である小野氏との関係説や「小野郷」(現在の府中市)への道筋だからともいわれている。実際、府中から近藤勇は、剣術の指南に、小島邸(現在の小島資料館)に通っていたという。
新選組の輩が通ったという「関谷の切通し」も歩いてきた。
そのあと、野津田公園を歩いて、「古代駅家(うまや)推定地」を探す。かって奈良時代、武蔵国府(府中)と相模国府(海老名、平塚、大磯を時代ごとに変遷)を結んだ古代東海道は、野津田バス車庫付近で二つに分かれていた。文献によると、16キロごとに駅家(うまや)が設けられていたので、この辺りに、駅家があった計算になる。現在の神奈中バス車庫付近である。昔も今も交通に関連する施設があるのは、何かのお導きか。ただ、全く跡もなく碑もなかった。
地蔵塔(元高札場)はあった。
野津田公園には、鎌倉上の道が残っていて、今に伝えている。
最後に、七国山の脇を通って、新田義貞が、鞍をかけて休んだとされている、「鞍掛の松」に行った。
細い路地がたくさんある住宅街の片隅に一応、公園となってひっそりとあった。
野津田公園は、大きな公園で、サッカーをやっているグランドや自然を散策している人たちもいて、にぎやかだった。
また、町田は意外と起伏があり、歩くのには、大変のところだと思った。昔から人は、こんな山の上を歩いて、移動していたんだな、それに集落をつくっていたんだなと感心した。
まずは、小野神社。小野篁(おののたかむら)の7代後の子孫が建てたという神社で、由緒正しき格式ある神社だと感じた。
この近くには「小野路宿」があり、交通の要所である。
「小野路」の地名の由来は、平安時代に、牧場地帯「小野牧」(現在の八王子市から日野市や多摩市、町田市北部)への入り口だったからとか、武蔵七党の一つ横山党の祖である小野氏との関係説や「小野郷」(現在の府中市)への道筋だからともいわれている。実際、府中から近藤勇は、剣術の指南に、小島邸(現在の小島資料館)に通っていたという。
新選組の輩が通ったという「関谷の切通し」も歩いてきた。
そのあと、野津田公園を歩いて、「古代駅家(うまや)推定地」を探す。かって奈良時代、武蔵国府(府中)と相模国府(海老名、平塚、大磯を時代ごとに変遷)を結んだ古代東海道は、野津田バス車庫付近で二つに分かれていた。文献によると、16キロごとに駅家(うまや)が設けられていたので、この辺りに、駅家があった計算になる。現在の神奈中バス車庫付近である。昔も今も交通に関連する施設があるのは、何かのお導きか。ただ、全く跡もなく碑もなかった。
地蔵塔(元高札場)はあった。
野津田公園には、鎌倉上の道が残っていて、今に伝えている。
最後に、七国山の脇を通って、新田義貞が、鞍をかけて休んだとされている、「鞍掛の松」に行った。
細い路地がたくさんある住宅街の片隅に一応、公園となってひっそりとあった。
野津田公園は、大きな公園で、サッカーをやっているグランドや自然を散策している人たちもいて、にぎやかだった。
また、町田は意外と起伏があり、歩くのには、大変のところだと思った。昔から人は、こんな山の上を歩いて、移動していたんだな、それに集落をつくっていたんだなと感心した。
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