友人から一枚の新聞の切り抜き記事をもらう。
そこには「頼朝の落馬 亡霊の仕業か」と大きな見出しがある。
私が歴史好きと知って、わざわざ切り抜いて持ってきてくれたのだ。ありがとう。
平成24年6月5日(火)、仕事が休みなので、早速行ってみた。
場所は茅ヶ崎駅近くで、相模川(馬入川)が流れ、国道1号線が通っていて、いたるところに旧東海道の街道とリンクしている場所である。
その証拠に「南湖左富士」という場所があった。
本来東海道は富士山の南側を通っているのだから、富士山は街道よりも右側に見えるはずである。ところが、ここでは道が右に大きく曲がっているため、富士山が東海道より左側に見える。そんな場所であり、立派な石碑があった。
また、安藤広重はここの富士の見事さを浮世絵に描いている。
江戸時代、たくさんの人がここを往来し、富士の雄姿に感嘆したことであろう。
今回、雲がうすくかかり、うっすらと富士山が見えた。それでも見事な景色だったから、晴れてたら、さぞかしいい眺めであったろうと思われた。
この相模川の下流域は、馬入川と呼ばれている。昔、源頼朝が騎乗で橋を渡っていたところ、馬が頼朝を振り落として川に飛び込んだことから、相模川の下流が馬入川と呼ばれるようになったという。
そもそもこの橋を渡るいきさつが、
「1198年、頼朝の家臣、稲毛重成が亡き妻の供養に架けたとされ、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には頼朝は渡り初めをし、その帰途に落馬してまもなく亡くなったと記録されている」とある。
重成の妻が政子の妹だったため頼朝は出席したとされるが、なぜ落馬したかははっきりしない。
その渡ったとされる橋の橋脚が、関東大震災の折に水田ににょきっと出できた、今回行ってきた「旧相模川橋脚」である。現在あるものはレプリカである。
プールのような池に、列状に直径60㌢程の太い柱が10本立っていた。その上に橋が架かっていたのだから、その川の幅の広さが伺える。800年くらい前にはここは湿地帯で、いくつもの川が流れて本流の相模川に合流していたんであろう。
話は戻るが、何で馬が頼朝を振り落としたか。
はっきりはしないが、この付近には「弁慶塚」や「御霊神社」がある。
橋脚の近くに「鶴嶺(つるみね)八幡宮」という参道の長い神社があった。
古くて格式がある神社である。そしてその境内には、とても大きなイチョウの木があった。
そこの鳥居の近くに、「弁慶塚」があって、そこには、「義経・行家(みなもとのゆきいえ・源為義の十男・平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する・平家と戦うが敗北・頼朝に所領を求めるも拒否された)らの亡霊が現れて、馬は棒立ちになり落馬し、里人たちは、義経の一族の霊を慰めるためにこれを作った。」とある。江戸時代と年号はあった。
弁慶塚から歩いて5分くらいのところに、義経が合祀されている、「御霊(ごりょう)神社」があった。「非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊があらわれて・・・」とそこにも書いてあった。
新聞によると、「頼朝が落馬したのは、弁慶塚付近」とある。となると、鶴嶺八幡宮の鳥居近くで落馬になる。今はそこは国道1号線が通っていて、車が多く行きかい、川の面影が全くないところである。
やはり、頼朝は義経や行家に悪いことをしたと死ぬ前に後悔したのだろうか。
大河ドラマ「平清盛」では、父の義朝はその父上を斬れずに泣き崩れ、相まって家臣が斬る場面を頼朝が見ていたけど、この時頼朝は非情なことも時には必要ということを学習したのかも。
それが人の恨みをかうことも行なってしまい、こういう鎮魂の形であらわれたのだろうか。
合掌。
新聞記事を読んだだけでは、よくわからなかったけど、今わかちゃんのブログを読ませてもらって記事の内容がよく理解できました。ありがとう。写真でみると、レプリカの様子ももよくわかりました。
私も「平清盛」を見てて、頼朝が父親を切れない義朝を見たことが義経暗殺になんらかの影響をあたえたのかなと思ってテレビを見てました。これから、いよいよわかちゃんの大好きな頼朝の出演が増えてくるのでしょうか。頼朝役の「岡田将生」に期待しましょう。楽しみだね。
あの場面はちょっと変だったよね。
でも前にみなちゃんが言っていたように、これはあくまでもドラマだから、そうやって割り切って見なければいけないよね~。
護良親王のことでも私は歴史はほんと創られていると感じています。
でも、まるっきり無なわけではないと思うから少しの真実を見つけていくのが面白いです。
この落馬の記事もその一つです。
ほんと有難うです。