東京新聞 4月21日
内部被ばく 無視の歴史 源流はアメリカの軍事研究
肥田舜太医師に聞く
「100ミリシーベルト未満の被曝は問題ない」…福島原発事故後、政府や一部の学者たちはそう繰り返してきた。よりどころは国際放射線防護委員会(ICRP)の見解だ。しかし。原爆の被爆者医療に60年以上携わった肥田舜太医師は、見解を「科学の名を借りた壮大なウソだ」と断言する。「ウソ」の源流には、原爆障害調査委員会(ABCC)の調査活動があった。
「ICRPの基準など信用できない。その原点は、広島・長崎の被爆者を調べたABCCの調査にあるからだ。
内部被ばくを考慮しない、うそっぱちの内容だった」。肥田医師は戦後一貫して、そう訴え続けてきた。
1945年8月6日。当時、28歳で広島陸軍病院の軍医だった肥田医師は、広島市中心部から7キロほど離れた戸坂村で爆風に吹き飛ばされた。
市街地に戻る途中、体中から無数のぼろ切れを垂らし、手から黒い水をしたたらせて歩く人影に出会った。ぼろ切れは皮膚、黒い水は血だった。腰まで水につかって川を渡ろうとすると、死体がぶつかっては流れた。
多数の負傷者を治療するうち、爆心地から離れた場所にいたひとびとが突然なくなるという不可思議な現象が始まった。
紫斑が出て髪が抜け、大量出血して息絶える。
原爆投下から、一週間後に市内に入り、夫を探していた女性は、血を吐いて急死した。
同様に投下後に市内に入り、肥田医師の腕の中で「わしはピカにはおうとらんのじゃと叫び、息を引き取った男性もいた。」
肥田医師たちは当時、内部被ばくのことを知らず、そうした症状を「入市被曝」と名付けた。生きのびた患者の間にも、あるひ突然体がだるくなって動けなくなる「ぶらぶら病」が多発した。
「こうした健康被害が『内部被ばく』で説明できると知り、長年の疑問が解けたのは、30年後。アメリカのアーネスト・スターングラス博士の研究に出会ってからだった」と肥田医師は語る。
アメリカピッツバーグ大名誉教授である同博士の著書では、外部被曝とは別に「食べ物や水を通じて体内に放射性物質が入ると、低線量の被曝で健康被害が出る」という内部被ばくの危険について解説されていた。
ABCCはそもそも、調査対象を爆発による爆風・熱線・初期放射線による被害に限定し、入市被曝者を対象から外していた。
肥田医師は、「じわじわと人間をむしばむ、残留放射線による内部被ばくが無視された。そんな調査から導かれた防護基準にするなんて、めちゃくちゃもいいところ」と憤る。
当時、担当していた患者に頼まれ、ABCCの施設に付き添った。患者は原爆が爆発したとき、広島にいなかったとABCC側に伝えた。すると「被爆者ではない」と門前払いされた。
ABCCの真の狙いは、原爆の殺傷能力を調べることだったと肥大医師は語る。
治療は一切せず、被爆者の体液や組織を採取。亡くなると、遺体の臓器を取り出し、米陸軍病理研究所に送った。
肥田医師は「あのとき治療に挑んでいたら、放射線障害に対する医療はその後、格段に進んでいただろうに」と悔やむ。
ただ、治療はおろか、終戦後の占領下では、日本の学会が放射線被害を調査・研究することすら禁じられていた。
現場にも情報は来なかった。医大氏も46年頃、「原爆被害は米軍の機密なので外部に出さないように、との厚生大臣の通達があった。被爆者のカルテは記入しないように」と、勤務先の院長から指示された。
「広島・長崎の被爆者は、呼吸や飲食で体内に入った放射性物質の影響で、60年以上たった現在でも、ガンやさまざまな病気に苦しめられている。
今回の福島の事故後、政府は『低線量の放射性物質は健康に影響しない』と言い続けているが、内部被ばくはどんなに微量であっても影響がある」
そのことは「フクシマ」の将来に重なる。
「低線量被曝による健康被害は数年後に出てくる。治療法はまだ見つかっていない。
だからこそ政府が予算を組み、原爆医療をしてきた人たちを中心に、被爆者を受け容れる体制を整えなければいけない」
☆デスクメモ☆彡
ABCCは、1975年に財団法人・放射線影響圏救助になる。その元理事長、故重松逸造氏は、チェルノブイリ事故でIAEAの調査弾を率い、放射能の健康影響は認められないと報告。ベラルーシなどの代表から強く抗議された。
フクシマはどうか。事実を埋もれさせてはならない。
核/原子力開発を優先 「ヒバク受任論」押しつけ! 故中川保雄/神戸大教授
日本画放射線防護の基準としてるICRP勧告の歴史を振り返り、その本質が「社会的・肉体的に弱い人たちの切り捨てだ」と看破したのは、91年に亡くなった故中川保雄/神戸大教授だった。
中川教授は、著書「放射線被曝の歴史」(明石書店)で、「今日の放射線防護基準とは、核/原子力開発の為にヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクがやむおえないもので、我慢して受任すべきものと思わせるために、科学的な世添いをこらして作った社会的基準」と記した。
かつて中川教授と研究活動をともにした「科学技術問題研究会」の稲岡さんは、「第二次大戦前の米国では、医学者や生物学者らが防護基準を作ってきたが、戦後は原爆を開発したマンハッタン計画に参加した学者たちが中心となった」と説明する。
同書によると、50年に初会合を開いたICRPは、米国放射線防護委員会NCRP議長のL・S・テイラー氏を中心に組織された。同氏はマンハッタン計画の医学部長。英国やカナダなども参加していたが、核戦略の全身を前提とする米国の影響が強かった。
一貫するのは「一定の犠牲はやむを得ない」とする放射線についての受任論だ。
水爆実験と原発の商業利用が始まった50年代には、「リスク~ベネフィット論」が登場。核・原子力開発の「社会的・経済的利益」と生物的な「リスク」が比較され、許容線量が決められた。
さらに73年の石油危機以降は「被ばくで失われる生命の勝ちを貨幣に換算するコスト~ベネフィット論に『先鋭化した」(稲岡さん)という。
しかし、巨大なチェルノブイリ事故でこうしたバランス論は破たん。ICRPは苦肉の策として、基準を重大事故を前提とした「緊急時」「現存」「計画(平常時)」にスライドさせる方式をとった。
これが、2007年勧告で、日本政府も福島原発事故で踏襲した。
稲岡さんは訴える。
「すでにICRPの放射線防護体型は破たんしている。今は原子力推進国が利用しているだけだ。核や原子力開発推進を目的としない新たな防護の基準作りが必要だ。
『3.11 肥田舜太医師 講演会』 黒磯 (一輪の花)
http://bit.ly/AlfhjV
どうにもならない地球を孫には残したくない。原発がない地球を、孫子に残すことが、皆さんの使命です。ぴたっとやめて、ひ孫にはまったく経験させない。
映画『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』
http://www.uplink.co.jp/kakunokizu/
【講演会】 肥田舜太郎医師、『内部被爆の真実・危険とどう向きあうか。』 12/03/31 尾道しまなみ交流館(録画) http://bit.ly/Hx5cQM
【内部被曝診療の生き証人 肥田舜太郎医師 3・11講演会】@kamitoriさんつぶやき編集 http://bit.ly/GPAg1y
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます