鳥肌が立つ
硫黄島の・・つらい玉砕の話は
子ども時代からの 震える涙を思い出す
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
↑より引用↓ 画像拝借
同年6月26日には大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。これは第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は第109師団長(栗林中将)が兼任した。この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、その主な基幹部隊としては同守備隊唯一の歩兵連隊[5]である歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄陸軍大佐)と、九七式中戦車(新砲塔)と九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一陸軍中佐)があり、またその他の有力部隊として、秘密兵器である四式二十糎噴進砲・四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長・横山義雄陸軍大尉)や、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊が配属されていた。
(引用終)
南方戦線へ送られた末っ子の叔父
骨の帰らぬ叔父だ
写真は仏壇の横の大きな写真は
二等兵の軍服で
なぜか怒ったように不機嫌な伏目が
今も、私には ひっかかっている
言いたいことがいっぱい!あって
表現できない「もどかしさ」
何だろう?
叔父さん!
私は生きるよ!
あなたから何も聞こえない!
何も解らないけれど、私、
あなたの分も生きてやるぞっ!
私の命ある限り、
絶対、ノー!戦争!を誓う!
毎朝、毎晩
仏壇に誓って 大人になった
「戦争は 二度としてはならない」
そんな思いが
幼いころの、あの仏間の光景まで
ありありと 甦る
勝てば官軍
勝者だけの観点で語られる歴史は うんざりだ
戊辰戦争の犠牲者の弔い~ようやく会津へ⑥
http://kazenoshin.exblog.jp/13309227
↑より抜粋引用↓
少年期を会津で過ごし、他所で生活するようになった者にとってカルチャーショックを受ける事の一つに、戊辰戦争の犠牲者の弔い方がある。
その感覚に関わるニュースがあった。
「福島民報(2011/08/11)」では、「会津松平家13代当主松平保定氏が死去された」と報じている。 その中で、次のようなエピソードを紹介していた。
氏は、靖国神社宮司に推薦されたが、
「戊辰戦争の薩長の戦死者がまつられ、
賊軍とされた会津藩の戦死者がまつられていないのに、
会津人として受けるわけにはいかない」と固辞したとのことだ。
会津では、日本人同士の戦争である戊辰戦争と日清・日露戦争以降の対外的な戦争を分けて戦争の犠牲者を弔う。
先日、TUFで、「会津で平和祈願祭、小山田忠霊堂(08月15日)」のニュースがあった。 「終戦の日」に、会津若松市では「小田山忠霊堂」で「平和祈願祭」が行われたとのことだ。
この忠霊堂には、日清戦争から第二次世界大戦までに戦争で亡くなった県内出身者の霊およそ「1万3千柱(はしら)」が祀られている。
そして、戊辰戦争にかかわる官軍の霊はこの忠霊塔には祀られていない。先に「会津西軍墓地」として整理したように、官軍の霊は、西軍墓地に祀られる。
当然ながら、会津では東軍の霊も祀られる。
この事については「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる」・「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる②」に整理している。
(引用終)
合掌
新藤総務相は
栗林中将のお孫さんでしたか!
とても複雑な想いです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%97%A4%E5%AD%9D%E8%A1%9B
新藤勝衛 (父)
栗林忠道 (岳父)
新藤義孝 (長男)
靖国神社:新藤総務相が家族と参拝 硫黄島・栗林中将の孫
毎日新聞 2014年01月02日 19時08分(最終更新 01月02日 23時17分)
http://mainichi.jp/select/news/20140103k0000m010034000c.html
新藤総務相は、お爺様に似て戴きたかったです。
靖国に東北の御霊をお祭りしていない。
もともと薩長同盟のもの。のっとり明治天皇も含めて。
西軍の論理としては、
(1)関ヶ原の戦いで敗北して以降、長く徳川幕府ににより煮え湯を飲まされてきた。
(2)形骸化した政治を維持し、明治維新(新しい国家形成)に非協力的、あるいは腰の重い幕府は国家にとって有害な存在である。
(3)故に、東軍は国家の敵である。靖国は国家の敵を祀るところではない。
といったところでしょうか。
しかし、徳川幕府への恨みを戊辰戦争に求めるのは、建設的ではありませんね。
しかも、東軍の遺体を放置とは、同じ日本人に対する武士の情けを感じません。
今となっては、後の祭りですが、そもそも靖国に戊辰戦争の犠牲者(東西関係なく)を祀ること自体がおかしな話ですね。
あれは、日本の外敵に対して戦った犠牲者を祀るというのが表向きの理由ですから。
しかしながら、その矛盾を除けば、その後の軍人・兵士の中には靖国を心のよりどころとした方もいたということもまた事実。
今更、東軍・西軍うんぬんを掘り返すのも、建設的ではありませんね。