言わなければならない事は言わないと前には進まない

生活する中において言わなければならない事や、他の記事で共感したことなどを中心に。今その時の思いを表す。

戦後70年 「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 俳人・金子兜太さんインタビュー

2018-02-24 07:02:33 | 言いたいことは何だ





インタビューに答える俳人の金子兜太さん=埼玉県熊谷市で2015年6月15日、喜屋武真之介撮影

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トラック島で「捨て石」体験



 戦争における生と死の実態とはどのようなものなのか。そこに皇軍の誉れはあったのか。帝国海軍主計将校として、南洋のトラック島に“捨て石”とされた体験を持つ俳人、金子兜太(とうた)さん(95)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】


  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
 敗戦を迎えたトラック島での1年3カ月の捕虜生活を終え、日本への引き揚げ船となった駆逐艦の甲板上で、詠んだ一句です。最後の引き揚げ者200人とともに、島を後にしました。小生の所属部隊を含め、戦死者はらくに1万を超していた。その人たちを思い、復員後の生き方を決意した一句です。
 海軍を志願したのは功利主義からでした。どうせ戦争にとられるなら、一兵卒は嫌だった。東京帝大経済学部在籍時に海軍経理学校の試験にパスし、1943年9月に入学します。その3カ月後が学徒動員でした。同輩、後輩が、随分と死んでしまいました。翌年2月に卒業し、配属されたのが、海軍の拠点が置かれたトラック島。第4海軍施設部の最年少の甲板士官(中尉)でした。
 軍隊は身分制の世界です。上からは将官、将校、下士官、兵卒。さらに募集・徴用で集められた民間の工員がいました。ある日、工作部が手製の手りゅう弾を製作しました。実験をすることになったが、将校・下士官はもとより、兵卒にやらせるわけにもいかない。そこで、工員にやらせろと。ところが、工作部は機械製造などが仕事で、熟練工が多い。貴重だ。施設部は道路工事などの単純な仕事だ。役に立つかどうかでも、命の価値に差があった。「金子中尉、お前のところでやれ」と。1人の工員を選びましたよ。
 ボーン。発火させた途端、手りゅう弾が爆発してしまった。その工員、田村の右腕は吹っ飛び、背中に白い穴がカアーッと開いた。隣にいた落下傘部隊の少尉も海に吹っ飛ばされて、即死でした。ところがね、それを見ていた工員仲間たちが田村を担ぎ上げ、「わっしょい、わっしょい」と病院に駆けだした。
 人間への認識が変わりました。もともと、一旗揚げようと南の島に来た工員ばかりでした。聖戦とか、大東亜共栄圏とか、そうした意識は薄い。けれども、明らかに死んでいても、仲間は放っておかない。俺は人生を甘くみていたんじゃないだろうか。人間って、いいもんだ。「わっしょい、わっしょい」の声は今も耳に残っています。
 サイパン島が陥落したとき、矢野兼武(海軍主計中佐。詩人で、筆名・西村皎三=こうぞう)という元上官が戦死したんです。この人が「金子、句会をやれ。(戦況悪化でトラック島は孤立し)今に食糧が逼迫(ひっぱく)する。皆が暗くなる」と言っていたことを思い出した。その遺言に従い、句会を開きました。
 すると散文詩をやっていた西沢実(戦後、放送作家)という陸軍戦車隊の少尉が、同僚将校を4、5人ほど連れてきた。最上級は少佐です。こちらは工員10人ほどですから、驚いた。しかし、西沢は「関係ねえ。おんなじ人間だ」。たったの3カ月でしたが、すっかりと打ち解けた。無季(季語のない句)も気にしなかった。ただ、戦場は戦場。神経は張り詰めていた。
  空襲よくとがった鉛筆が一本
 その時に詠み、今でも覚えている一句です。
 この句会が打ちきりとなったのは食糧不足が原因。周辺の島々に部隊を分散させ、食糧生産に従事させることになった。工員と事務職員が中心の200人を率い、日本名「秋島」に渡りました。年3回は収穫できる「沖縄100号」というサツマイモを持ち込み、自活するはずだった。ところが、これを食う虫がいることを誰も気付いていなかった。机上の空論でした。「南洋ホウレンソウ」と名付けた青草を海水で煮たりしました。ただし、これは食べ過ぎると腹を下し、体力を奪った。
 官僚組織とはひどいもんです。「栄養失調による病死」にしてしまう。実態は「餓死」。しかし、皇軍に「餓死」は禁句だった。はったりをきかせていた工員たちがみるみると弱っていく。やせ細った餓死者の顔は仏様のようなんですよ。本当に可哀そうでね。他の島との連絡にポンポン船を出せば、見回りの米軍のグラマンが機銃掃射してくる。ズタズタにされる。
 ところが、「あと何人か死ねば、残りを生かすだけの食糧はあるな」などと冷静に考えている自分がいた。人間なんて、浅ましいものです。幹部将校たちはサイパン島が陥落した時点で、この戦争はもう駄目だと思っていた。そうなると女房と子供の顔を見るために内地に帰ることしか、考えていなかった。
 「虚無の島」でした。軍事的価値を失っていましたから、米軍の主力は素通りし、友軍が増援部隊や物資を送ってくるはずもない。工員たちは「捨て子」と自嘲していました。軍事教練などなく、日々の仕事は食糧生産ばかり。やることがない。人間が無感動になっていく。生きる意味を見いだすことができない。レイテ沖海戦で海軍の象徴たる戦艦武蔵が沈没しても、沖縄が陥落しても、仕方がないとの気持ちだけです。
 この島での11カ月間、俳句を一句も詠まなかった。無意識にです。なぜだろうか。それ以前も、その後も、そんなことはなかった。幼少時から、七五調の「秩父音頭」を聞いて育ちました。実家では父が水原秋桜子(俳人、俳句雑誌「馬酔木」=あしび=を主宰)と知人で、句会の支部を作ったりもしていた。俳句がアイデンティティーとして、私は存在している。それがまったく失われていたのに、島では気付きもしなかった。それが戦争なのでしょうか。
  椰子の丘朝焼けしるき日々なりき
  海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
 終戦の詔勅を聞いた後にやっと、俳句が自然と湧いてきた。米軍の収容所では食糧がきちんと与えられましたね。米軍に没収されないように句を書いた小さな紙を丸めて、配給されたせっけんに押し込んで内地に持ち帰りました。
   ◇     ◇
 戦後は日本銀行(従軍前に3日間在籍)に復職しましたが、組合活動をやるなどして、にらまれた。課長にもなれずに退職しました。しかし、東大を頂点とする学閥を軸に作り上げられた人事体制は身分制そのものであり、半封建制だと思った。トラック島で共に過ごした工員たちの生々しさに比べ、この官僚たちは何なのかと。日本は戦争に負けたのに近代化されていなかった。






トラック島の麦倉俊三郎31軍司令官は米巡洋艦上で、ムーレイ海軍中将と降伏調印=1945年9月27日
  彎曲し火傷し爆心地のマラソン
 日本人は何を学んだのでしょうか。長崎支店時代の一句です。
 戦後を共に生きた仲間たちも徐々に鬼籍に入っています。皆の名前を毎朝唱え、皆に向き合う「立禅」を続けています。振り返るに戦場での死のむなしさ、異常さを考えずにはいられません。それは「自然死」ではない「残虐死」です。
 集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい。
 トラック島に残した部下たちには実は墓碑などなかった。個々人が生き延びるだけで精いっぱいの中で、できるのは小高い丘の上の穴に埋めることだけでした。国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢できません。無理に生きる必要のない、自由な社会を作っていく。それが俺の思いです。
 かねこ・とうた 1919年、埼玉県生まれ。東京帝大経済学部卒。日本銀行在職中の62年に俳誌「海程」創刊。2008年文化功労者、10年毎日芸術賞特別賞。現代俳句協会名誉会長。




【拡散希望】 小平奈緒選手の発言 「スポーツによって私たちは一つの国民のようにまとまることができるのです。とても簡単なことです」 I

2018-02-21 06:45:44 | 言いたいことは何だ
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IOCの公式ページに小平選手の発言が紹介されている。
. "Le sport peut nous rassembler comme un seul peuple. C'est tout simple", a dit Nao Kodaira.

「スポーツによって私たちは一つの国民のようにまとまることができるのです。とても簡単なことです」という意味だそうだ。

小平選手はぎくしゃくしている日韓関係を憂いてこの発言をしたのだろう。だが、日本国内のどの報道機関からも報道されてこない。

https://www.olympic.org/fr/news/nao-kodaira-fonce-sur-l-or-du-500-m-dames-en-patinage-de-vitesse

種子法廃止は米国やモンサントからの圧力だけでなく、住友化学と政府の癒着も見逃すな

2018-02-12 18:34:39 | 言いたいことは何だ
FB印鑰 智哉様より転載
TPPや種子法廃止は米国やモンサントからの圧力とかだけで考えるとしたら大きな問題を見過ごすことになってしまう。
 たとえば、EUも韓国や台湾もブラジルも、そして米国までもが規制を始めたネオニコチノイド系農薬を、なぜ日本だけが規制緩和し続けるか? 
外圧だけでは到底、説明がつかない。
 実際にネオニコチノイド系農薬を開発、製造している企業を調べてみると驚く。日本企業が名を連ねているからだ。 
クロチアニジンは住化武田農薬(現住友化学)が開発、住友化学が製造。
 アセタミプリドは日本曹達が開発、製造。
 ジノテフランは三井化学が開発、製造。
 ニテンピラムは武田薬品が開発、住友化学が製造(武田薬品の農薬部門は住友化学に合併)


 いうまでもなく住友化学は経団連会長を出した企業。
政府との関係は密だ。
蜂だけでなく、人への影響も指摘されている危険な農薬が日本でだけ規制緩和されてしまうのは、こうした日本企業と政府との癒着がありマスコミが報道せず、市民運動が十分な力を持てないために、日本だけ世界とは違う動きになってしまう。


そして被害はすべての生き物に。

 種子は儲からない産業だ。手間と時間はかかり、自然相手の大変さもある上、売り上げは限られている。でもそれが農薬と結びつけられた時にそれは儲かる産業へと変身する。種子を農薬でコーティングし、それをライセンス契約で栽培させ、さらに農薬散布も義務付ける。世界は本格的に脱農薬の時代を迎えつつあるが、もし化学企業が作る種子ばかりになってしまえば脱農薬は不可能になる。


 どういう未来を作るのかまでが握られてしまうことになる。



3人に1人の子どもが慢性疾患を抱え、親と同じだけの寿命を生きられないかもしれないというとても悲しい警告が出されるようになった米国で、その原因の主要因が遺伝子組み換えとその農薬であると見る見方が支持を強めている。・・
 
******************************
企業は遺伝子組み換えのリスクを考えないのだろうか?
金儲けさえできればそれでいいのか?
これは、企業倫理の問題でもあるだろう。
これら企業の拝金主義は、日本人の健康と自然環境、農業をも破壊します。
抗議の声は こちら。
種子法に代わる新しい法律を求めるための署名はこちらでぜひどうぞ。https://www.taneomamorukai.com/campaign
「サルでもわかる種子法廃止」もあわせてご覧ください

あべさん、またキレたのですか!? 籠池前理事長が夫人と電話で話したと主張する音声データなどに関しては「真っ赤なうそ、うそ八百だ」 ・・・であれば、なぜ籠池氏を偽証罪で訴えないのですか?

2018-02-07 04:39:46 | 言いたいことは何だ
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安倍首相、昭恵夫人の活動自粛 森友で野党追及の的
2/6(火) 9:53配信 日刊スポーツ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180206-00118246-nksports-soci

 安倍晋三首相は5日の衆院予算委員会で、森友学園問題との関係を連日、野党に追及されている昭恵夫人について、今後、活動を「自粛」させる意向を明かした。無所属の会の江田憲司氏に、「夫人は今もあちこち行っている。今後は厳に慎むということでいいのか」と指摘され、「まさに江田議員が言ったように、厳に慎んでいかなければならないと思う」と述べた。

 首相は、学園が建設を予定した小学校の名誉校長に一時、夫人が就任したことや幼稚園での講演を事実と認め、名誉校長の就任が「疑念(を持たれる)のもと」だったと説明。江田氏は「(籠池泰典前理事長に)はめられた面もあるかもしれないが、夫人は行動的に(学園に)行っている。(疑念の)外形をつくったのは昭恵さんで、第三者が『夫人案件』と思うのは当たり前だ」と批判。夫人の国会での説明を要求した。

 一方、首相はこの日、昨年以来、“自粛”していた感情的な発言を復活。「やじでうるさい。答えにくい」と、委員長に3度も注意を促すよう求め、いらだちもみせた。国有地売却の交渉に関し、籠池前理事長が夫人と電話で話したと主張する音声データなどに関しては「真っ赤なうそ、うそ八百だ」と、前日鑑賞した映画の題名を引用し、声を荒らげる場面もあった。

・画像:安倍昭恵首相夫人(17年8月)