「え?」
同意しないだろうと思っていながら、同意書を出した。
いや?
逆か?
同意しないから、あえて、同意書を渡した?
ところが、案に相違して、教授の了承の証拠となるものが目の前に提示された。
同意しないはずの教授が同意している。女医は同意を突き崩す論理を考えた。
こういうことだろうか?
だが?
何故?
何故、そこまでして、治療を避けるのか?
いや、それ以前・・・・。
『何故・・同意してくれなかったのでしょう』
再び私の頭の中に夫人の言葉が瞬いた。
夫人でさえ、疑問に思うことだ。
で、あるのに、女医は逆に教授が「同意しない」と踏んでいた。
じっさい、女医の言うとおり、教授は同意していない。
だが、これは結果論だ。
女医はすでに予測していた。いや、むしろ、判断に近い。
何故、教授が同意しないと判断したのか?
考え込んでしまった私に女医は、何故、教授が同意しないと思ったか説明し始めた。
「じつは・・・、私が瞳子さんの診察にあたったのは、柚木先生からの依頼だったのです」
「柚木先生?」
「ええ、大学記念病院の精神内科の室長です」
聞き始めの名前とそれが何故急に女医の口から飛び出てきたのか解からず、私は戸惑った。
「篠崎さんは、柚木先生に女医を当たってくれと頼んだのでしょう」
なるほど。女医の言う意味は解かった。
だが、それと教授が同意しないことがどうつながるのだろう。
女医はわざと沈黙を守り、私がなにかを思いつくのを待っているようだった。
女医の思惑を受けて立つかのように私は考えてみた。
『つまり、教授と柚木先生の間には信頼関係があり、本来ならば、教授は柚木先生に瞳子を診てもらいたかった。
だが、瞳子の様子で女医を紹介してもらうしかなかった。
その女医にこのままのほうがよいといわれたら、教授は柚木先生に相談する・・・。
いや、おそらく、瞳子の事件を、いくら、信頼関係があるといっても、教授は話したがらないのじゃないか?
そういう相談相手がいて、教授も私にそのことを言わない・・?』
私はあらたな疑問に突き当たってしまった。
「教授の口から柚木先生のことなど一言もなかったのですが・・」
女医は私の解明作業にヒントを与えてきた。
なぜ、こんなまわりくどいことをするのか?
女医が説明すればよいことを女医は私が自分で気がつくように仕向けているとしか思えない。
それは・・・。
私はこの時点でまた、あらたな疑問を感じた。
そして、今までの女医のすべての態度が女医からの宣告でなく、私の意志で気がついていくようにしむけているように思えてきた。
「柚木先生は、精神内科の先生ですよ」
そうだ。そう聞かされた。
解かっていることを念押ししてくる女医の態度に私は、やはり、何らかの答えを自分から引き出せというメッセージを感じていた。
それは、女医の口から言えないことだから?
瞳子に感じた「大きな傷」もそういうことか?
それは、たとえ、今、目前の答えを引き出しても、瞳子の「大きな傷」も同じように、自分で引き出して欲しいという意味をかねているのか?
「精神内科医・・・」
女医が話せない・・・。
「精神内科医・・・」
女医が話せないことがあるとすれば、患者のプライベート部分だ・・・
「あ?もしかして・・・」
私の頭を掠めたことを口に出してみた。
「教授は・・柚木先生の患者だったということですか?」
それならば、教授が柚木先生を信頼し、女医を紹介してもらう立場になりえるかもしれない。
女医はやっと口を開いた。
「私に疑問系で尋ねないでください。お答えできないんですよ」
ああ、やはり、そういうことなのか。
私は質問の矛先をかえ、女医が答えられるものを選びなおした。
「それでは、教授が柚木先生の患者だったことを、何故、貴女が知ってらっしゃるんですか?
柚木先生から聞かされたということですか?
教授が話したということですか?」
女医はこの時くすりと笑った。
「貴方は本当に頭の良い方だわ。
もう一度、尋ねますけど本当に心理学とか?
勉強されたわけじゃないんですよね?」
どうやら、私の質問は女医の答えやすいところにヒットしたようだった。
「ええ、やっていませんよ」
「でしたよね。
私が何故、篠崎さんが柚木先生の患者であったことを知っているかというのは、
私がこのクリニックを開局する前まで、柚木先生の下で働いていて、
篠崎さんが通院してくるのを見ていたからです。
篠崎さんは私のことは覚えていないようでしたが・・」
何百人となくいるだろう患者の中から直接、診察したわけでもない教授を見かけただけで覚えている?
それは、教授が何度も通院していたということになるのではないだろうか?
「それは・・いつごろの話なんでしょうか?」
学生時代から大学院を経て・・教授とのつきあいは、かれこれ、10年近い。
過去、私が知る限り、教授が精神科に通わなければいけないような教授の不調を眼にした覚えが無い。
「15、6年前になりますね」
女医の唇の端がかすかに震えていた。
なにか、重大なことを何気ない顔ではなして、なんでもないことのふりをつくろったのに、唇がこわばる。
そんな風に見えた。
だから、私はいっそう、15、6年前に着目してしまった。もしも、女医の唇が震えなかったら、私は気がつかなかったことだろう。
15、6年前といえば、瞳子が夫婦のことを目撃した頃と一致する。
そして、瞳子の「基になる傷」は、女医の言い方では目撃のせいとは考えにくい。
だが、瞳子の話にどこまでの信頼性があるか、わからないが、白い蟲が父親からでてくるのをみた。と、言う。
そして、それを食べなきゃいけない・・・?
私の頭の中に教授宅で開いたパソコンの精神病の事例の数々がめぐりだしてきた。
瞳子の症状と一番よく似ていたのは、性的虐待の後遺症だ。
私は自分の固定観念を外して、その事例と瞳子のせりふと女医の言葉を照らし合わせてみた。
仲の良い親子。
良識的で、娘思いの父親という目の前に映る姿しか知らない。
だが、15,6年前・・何らかの精神病を患っていたという教授の精神構造はどうだったろうか?
いや?
あるいは・・・。
教授はひょっとすると、性的虐待を瞳子に与え・・そのことで、逆に精神病になった?
あるいは、精神病のため、判断がおかしくなり、瞳子を虐待した?
瞳子がものごころつくころだったのではないのだろうか?
瞳子はレイプ事件のせいで・・幼い頃のことを思い出した。
父親が自分にしていたことがどういうことか、理解した瞳子は・・・狂わざるを得ない。
一挙に流れ込んできた仮定があっているか、どうかより、そんな仮定をする自分でありたくないと思うほうが先だった。
私は馬鹿なことをと、自嘲しながら、女医を見つめ返した。
だが、馬鹿げた仮定でしかないと思いながら、女医に尋ねたことは教授の病名だった。
そういう虐待などということを行う病気がありえるのか?
病気のせいで、そういう精神構造になりえるのか、私は、そこを確かめようとしていたにちがいない。
それは、おそらく、そんなことはありえないと仮定をはっきり否定したかっただけだったと思う。
ー私の頭は狂っている。そうだ。間違いない。これは、音叉現象だ。ー
私は女医に教授がわずらった精神病を尋ねようとしながら、私の中のもう一人が尋ねる必要性を否定していた。
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