その顔を見ると胸の中から堰きあがってくる物がある。
それを押さえた波陀羅であった。
これは一樹を好いておる。
人に後ろ指を刺されるような己らの睦み合いの中から、
一樹への情を育み、一樹の子を得る事を本望と思う妻の心になっておる。
それが判ると尚更に比佐乃の境遇が憐れであり、
この地に来て初めて呼ばれたであろう、
ご新造さんと言う言葉一つに喜びを見出している比佐乃がいじらしくもあった。
「ご新造さん?なら、あ、ああ?ならば、
一人でこんな所にきてはご亭主が心配なさろうに・・・」
さも今気がつきましたという様に、気になっていた一樹の事に触れてみると
「それが、その良人が社の中に居る筈なのです」
「ああ・・・なんぞ、用事を言いつかったのですな?」
波陀羅も当り障りなく答えておいたが、
胸の中の慟哭を抑えるかのように、
胸を押さえつけねば立っても居られない程
波陀羅の中は愕然としていたのである。
間違いなく、一樹は双神に独鈷の変りにされるのだと考えたからである。
「ええ。そう言って居りました。でも、その、用事は何時すみましょう?
これでは、良人に逢う事も叶わないにそれをどうやって知りましょう?」
比佐乃は不安期な声を漏らした。
「御家に戻って、待たるるしかないでしょう?すぐに帰って来ましょう?」
なんの事情も知らぬ者であれば、
こうでも答えるだろう事を波陀羅は考えて口に出した。
が、比佐乃の顔が更にしょげてしまっていた。
「も、戻れない。良人と一緒でないと、それに・・・私は・・・」
何ぞ、当り障りのない言い分けで、
話しを取り繕おうとした比佐乃であるが
一樹と伴にでも帰れない腹の子がある事に口を噤んでしまった。
が、比佐乃の抜差しならぬ立場が判っている波陀羅である。
「何時になるか判らぬなら、どこぞ近くで待っておられればよい」
「それは、そうですが。路銀もそんなに持って居りませぬ。
父の形見の脇差しを一振りもってきておりますが、
それを売っても幾ばくの物にもなりはしない」
波陀羅は、父という比佐乃の言葉にぐっと詰った。
父と信じている者にされた事を比佐乃はどう捉えているのか、
死んでしまった事の者として許しているのか、
其れとも、陰陽師藤原永常に陽道の中におったものが鬼であると知らされたか?
そうと判ってしまえば、
一樹の事も鬼の差配と考えながら
己の情愛に負けて受け止めてきているという事になる。
そして、父と兄に犯されたこの憐れな娘が持ってきた脇差しが
この修羅場を造ったそもそもの謀を成させた
邪鬼丸の首を刎ねた因縁の物であったのである。
「父上は亡くなられておるのですか・・・貴方の父親なら、まだ若かろうに・・・」
探る様に聞けば・・・
「父は陰陽師でした。母との馴れ初めも鬼を退治した事が元だったそうですが
その鬼の祟りで、母親と伴に・・・・不思議な死に様でした」
と、言う。
「それは・・・」
己の所業の果てである。
鬼のせいにして成り上がった一組の夫婦の最後もやはり鬼のせいで終っている。
瞠目を隠す様にして
「賀刈陽道という陰陽師の事ですか?」
尋ねてみれば
「あ、ご存知の事ですか?」
比佐乃は驚き、目を見張った。
「もう、随分昔の事ですが・・・聞いた事があります」
「そうですか。父は随分不思議な方でしたが、
よう、神様事には信奉の篤い方でした。
私の事もよう可愛がってくれおったのですよ。
私と良人を結んでくれたのも父なのです。
私の中にあった拘りを取ってくれる為にしたくもない事をして、
随分辛かったと思います。御蔭で私も良人に・・・・」
比佐乃が言う事が何の事であるか、波陀羅は具体的に判るのである。
どうして、この様に善意に取れるのか判る事ではないが、
比佐乃自身は波陀羅の思う程に二人の男に責め苛まれた事を
苦としては受け止めておらず、
それ所か比佐乃にとっては別の価値感から受け止められていた。
そして、比佐乃が幼い頃から既に兄を異性として見ていたのだという事を
初めて知らされたのである。
父がおらねば可哀相であろうと独鈷に陽道の身体を乗っ取らさせた事は
あるいは、結果的には比佐乃にとっては救いをもたらした事であったのかもしれないし、そうでなくとも、どのみち比佐乃は一樹と成らぬ仲に成っていたのかもしれなかった。
「そうですか・・・。ならば、尚の事、頼る相手はご亭主しかないのですね?」
話しを元に戻すと
「ええ・・・」
比佐乃が、頷いた。
「縁もゆかりもない方にこんな話しは何ですが、
実は私にも貴方ぐらいの娘がおりました」
比佐乃は波陀羅の言葉に当惑したが、その意味合いを尋ねて見た。
「居りましたという事は・・・亡くなられてしまったのですか?」
「え、ええ。それが、なんや貴方によう似おって、つい、気になってしもうたのです」
「あ?ああ。不思議な事ですが、私も、貴方の喋り方なぞを聞いていると、
死んだ母親になんぞ言われている様な気がしておったのですよ」
「え、あ、」
それもその筈であるが、波陀羅も事実を話す訳にはいかない。
話した所で比佐乃が信じるわけもない事であるし、
何よりも、あのような仕打ちを与えた父を
比佐乃はそれでも信じ慕っているのであれば、
その父を死に追いやった鬼こそ自分であると露呈する事はできる事でなかった。
「有難う御座いました。取合えず一度城下に戻って、宿を探してみます」
「あ、夜道になるに・・・城下まで送って行きましょう」
内心、心細かったと見えて波陀羅の言葉に
「あ、助かります」
比佐乃は頭を下げた。
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