〈2007年2月に書いた以下の記事を復刻します。〉
1) 21世紀に入って、日本は「格差社会」が進行したと言われる。いろいろの統計からそう言われるのだろうが、生活実感からも格差が進んでいると思ってしまう。 一方で金持ちが高級車やブランド品、ぜいたく品を買いあさり、他方で庶民は安売りスーパーや100円ショップに群がっている。
どんな時代にも、どんな社会にも“格差”は存在する。格差自体は当然のことかもしれない。 しかし、戦後の日本は最も格差の少ない社会だと言われてきた。それはどういうことか。 私なりに考えれば、それは膨大な数の「中産階級」(あるいは「中流家庭」)が存在していたからだと思う。
「中産階級」とは中間層とか、マルクス主義用語では別名“プチ・ブルジョア”と呼ばれるような階層で、社会の中間的位置にあるものと一般に理解されている。平たく言えば、財産や生活水準が社会の上でもなく下でもない“ミドルクラス”の人達ということだろう。
この「中産階級」が多ければ多いほど、社会は安定すると言われてきた。かつて(20世紀)の日本は“総中流化”が政治の目標とされた面もあり、戦後はほぼ一貫して、このミドルクラスが社会の大半を占めてきたと言える。また、自分を中流だと意識する人も6~7割はいたと思う。
しかし、この“中流意識”も最近は怪しくなってきた。 政府が行なっている「国民生活に関する世論調査」によると、昨年(平成18年)10月の調査では、前年に比べた生活の向上感について「向上している」と答えた人がわずかに6,2%、「低下している」と答えた人が22,1%で、「同じようなもの」という答えが71,4%だった。
「低下している」という答えは、平成17年調査の時の26,1%より4,0%少なくなったが、相変わらず「向上している」という答えを大きく上回っている。
自分が上流か、中流か、下流(下層)かといった意識調査もぜひ行なってほしいと思うのだが、市場原理や競争原理が声高に叫ばれている昨今では、勝ち組対負け組、金持ち対貧乏人と言った「構図」がしばしば論じられるようになり、格差がいっそう拡大しているように思われる。
これは、ある意味で危機的な様相だと言える。なぜなら、かつての日本が目指した「総中流化」「総中産階級化」の路線が今や崩壊しつつあるように見えるからだ。 金持ち(勝ち組)と貧乏人(負け組)が顕在化することによって、社会が“二極分化”に陥る危険性が出てきた。それによって、中産階級が減少することは社会の不安要因となるだろう。
2) 総中流化、総中産階級化という言葉には「皆が助け合って豊かになろう」という意味も込められているようだ。 これが日本特有の「護送船団方式」とか「談合」「もたれ合い」といった悪いイメージにつながることがある。それは競争のない、活力に乏しい状態を連想させる。
従って、経済の構造改革が叫ばれ、道路公団の改革や郵政業務の民営化が実施され、市場原理や競争原理に基づく日本社会の活性化が図られているのだろう。それは良いことなのかもしれないが、逆に「皆が助け合って」という精神が希薄になりつつあるようだ。
最近の「拝金主義」・・・「自分さえ儲かれば良い。金さえあれば何でも買える。女の心も金で買える」といった風潮がはびこってきた。「負け組」にはなりたくない、自分は「勝ち組」になるんだということが当然のごとく叫ばれている。
そういう競争精神は悪いとは言えない。努力して、切磋琢磨して「勝ち組」に入るのは個人の自由だ。それは当然のことかもしれないが、社会全体が「強いもの勝ち」といった傾向を見せている。こういう現象が一方で“イジメ”やホームレス襲撃など、弱者切り捨ての動きにつながっているのだろう。
戦後の日本社会は、外国人からよく「最も成功した社会主義(共産主義)」だと言われてきた。 もとより日本は資本主義国であり、自由と民主主義を根幹として発展してきた国だが、膨大な数の中産階級を育て上げ、バランスの良い安定した社会を実現した。外国人はそれを羨ましがって「最も成功した社会主義」と皮肉ったのだと思う。
しかし、今や中産階級の人達は減少しつつあるのではないか。中産階級の減少は、下層階級の増加につながる。前に言った“二極分化”の傾向が徐々に現れているようだ。 20世紀においては、中産階級の没落は革命や騒乱に結びつく現象が起きたが、21世紀の今はそう単純ではない。
ほとんどの「先進国」が社会保障政策、例えば生活保護や最低賃金制度などを導入しているから、そう簡単に革命が起きたりはしない。 しかし、わが国でも見られるようにリストラされた失業者、倒産による負債者、ニートやフリーターの増大などによって社会不安と言うか、社会矛盾が顕在化してきた。(もとより、自分の好みでフリーターになっている者もいるが)
従って「強いもの勝ち」だけの社会にしてはならないのだ。 皆が“もたれ合う”社会も活力を失って良くないが、年収300万円程度の“下層階級”(こういう表現で失礼だが、あくまでも年収だけから見た判断だ)の増加は日本の危機につながる。 なんとしても、中産階級の増大、復権を図らねばならない。
3) 私がこの文章を書く切っ掛けとなったのは、過日、某先輩の主催する勉強会で国民新党の亀井静香代議士の講演を聴いたことによる。亀井氏はこの中で「中産階級」という言葉を何回か使っていたが、私はこの言葉をほとんど忘れかけていたから、妙に頭にこびりついたのである。
「中産階級」は俗にサラリーマンやホワイトカラーを指すと言われるが、厳密な定義があるわけではない。従って“年収”だけ(他の資産はとりあえず除外しておく)を基に自分勝手に日本の場合を想定すれば、それは5~600万円から1000万円程度のクラスだと私は考えている。もちろん、これには異論があるはずだから、あとは各人が判断すれば良いことだ。
ところで、私のような定年後の年金生活者にとっては年収の基準も何もないから、日頃の生活ぶりで自分の立場を判断するしかない。 私もかつてサラリーマンをしていた頃は自分が間違いなく「中流」だと思っていたが、今は中流なのか下層なのか分からない。 しかし、酒を飲んだり旅行や観劇も一応できるから、なんとか「中流」を維持しているとは思うのだが、客観的にはどうなのだろうか。
要は、各人が自分を上流なのか、中流(中産階級)なのか下層なのかと意識することにある。「上流」は少ないだろうが、問題は中流か下層かの比率である。こういう意識調査は、政府にしろマスコミにしろ大いにやってほしいものだ。
細かいことだが、中流でも「中の上・中・下」があるだろうし、下層でも「下の上・下」があるはずである。こうした意識調査によって日本社会の実相が明らかになれば、政治や政策の大きな指針になることは間違いない。
自由主義社会の日本だから、競争原理や市場原理が大切なことはもちろん分かる。 しかし、戦後の日本政治が追求してきた“1億総中流化”の願いがもし崩れるとしたら、年金制度の維持もその他の社会的公正の実現も非常に困難な状況に追い込まれるだろう。(下層階級・低所得者層には、国民年金保険料の不払いが極めて多いのだ。)
「格差社会」が進行することは決して良いことではない。中流家庭が多くなればなるほど、停滞している消費は伸び経済は活性化するのだ。ごく一部の金持ちが高級車やブランド品をいくら買いあさっても、経済全体が良くなるわけではない。「中産階級」の育成とその復興に国全体が取り組むべきである。 (2007年2月10日)