<2015年11月18日に書いた以下の文を復刻します。>
若い人はあまり知らないだろうが、フランスと言えば、戦後日本のいわば“憧れの的”だった。それは芸術や思想、学問だけでなくファッション、映画、シャンソン、グルメに至るあらゆる分野において憧れの的だったと思う。そして、多くの精神的分野において、日本と日本人に大きな影響を与えたはずだ。
そのフランスがいま、イスラム過激派との“戦争状態”で揺れている。政治的、軍事的話は別にして、私自身もかつてフランスに憧れていたので、思いつくままに話を進めたいと思う。 フランスには2度しか行っていないし、この国を私より知っている人は他に大勢いるだろう。しかし、何か書かざるを得ないのだ。個人的な感想で、支離滅裂なのでお許し願いたい。
最もポピュラーな話から入るが、戦後、映画と言えばフランス映画は大いに人気があった。ハリウッド全盛時代の前の話だが、俳優ではジャン・ギャバンやジェラール・フィリップからブリジット・バルドー、アラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーヴ、ジェラール・ドパルデューら多士済々である。これらの名優の1人ぐらいは誰でも名前を聞いているだろう。
フランス映画は結局 ハリウッドの陰に隠れたが、今でも忘れられない。映画から話が入ったが、戦後 日本人に最も大きな影響を与えたのは思想や哲学、文学だろう。特にサルトルやカミュらの実存主義は多くの若者を魅了したと思う。私自身はむしろ文学だったが、特にロマン・ロランに傾倒した。さて、これから支離滅裂な話になるが、フランス人ほど自我の強い、自主的な人間はいないと思う。
たまたま先日、フランスのことをよく知っている友人らと会食したことがある。総勢6人だったが、みんな(1人、中退だったか?)早大フランス文学科を卒業した者たちだ。その内の1人が野球に詳しくて、面白い話をしていた。
プロ野球の阪神タイガースに吉田義男さんという名選手がいた。タイガース・ファンならよく知っていると思うが、この人がかつてフランスで何年間も野球を教えていたことがある。友人の話によると、吉田さんがどんなに教えても、フランス人の選手はバントなどの『犠打』を決して承服しなかったというのだ。
野球を少しでも知っている人は、バントや犠牲フライのことが分かるだろう。自分はアウトになるが、塁上の走者を進塁させたり、または得点させる行為だ。野球にとっては最も基本的なことだが、フランス人は絶対にそれをやらないという。
つまり、フランス人は自分が“犠牲”になってチームに貢献することを拒否するのだ。たかが野球というゲームだが、それほど自我や自分が大切なのである。この点、日本人とは対照的だが、それほど自己中心、自分本位なのである。ここにフランス人の特性を見る思いだが、そういう民族なのだ。
私はこの話を聞いて、さもありなんと思った。この徹底した自己中心、自分本位な特性はある意味で魅力的だが、裏を返せば危険な面もある。他民族の伝統や風習をいっさい拒否するなど、排他的な側面があるのだ。報道によるとフランスでは、女性のイスラム教徒がスカーフをしたり、ブルカ(外衣)を着たりすることを禁止したという。
このため反発が起きたりしているそうだが、フランス人はそれほど自国の文化を大切にし、他国の文化や風習を拒絶する面があるのだ。以上、1つの例を挙げたまでだが、自由・平等・博愛を謳うものの、フランスはその反面 かなり排他的で独善的だと思う。旅行をすれば分かるが、フランス人は外国人に対して不愛想で、サービス精神などほとんど感じられない。それほど“自尊心”が強いのか。 以上、思いつくままに書いた次第である。(2015年11月18日)
フランスももちろん団体競技で強いものがありますが、フランス人は性格上、どちらかというと個人競技に向いているのでしょう。
フランス人はプライドがあるので、滅多なことでは英語は話しません。
また、日本ではディズニーランドが大人気ですが、フランスでは「自国の文化」にプライドがあるので、ディズニーランドへ行く人はとても少ないと聞いています。
そういえば、フランス人は、必要なければ英語を話してくれない感じですよね。
犠打や敬遠が多いと面白くないと言う人もいます。それも分かります。
日本は監督が「勝ち」に特にこだわるのでしょう。まあ、アメリカの合理主義がいいところかも・・・
個人を犠牲にすれば、何でも良いというわけではありません。フランスと日本の民族性の違いということでしょう。
でも、そんなアメリカは全体の利益のためならば市民が何万人と戦火の犠牲になっても構わないとする国でもあります。やはりそれも、犠打の発想をその侭に軍事にも当て嵌めてのことでしょう。何でもそれでいけるというものではありません。
私は所沢の西武ライオンズのファンなので犠打の重要さは能く分かります。