1)ゴッホ展に“割り込む”
その日は10月末の日曜日だった。
その月の中ほどから、東京・上野の国立博物館で「ゴッホ展」が開かれていたから、青木武男はぜひ見学したいと国電(現在のJR)に乗って鶯谷駅に着いた。
もう正午過ぎだったろうか。武男はそれほど待たずに、国立博物館に入れると思っていた。というのは、「ゴッホ展」が大変な人気で混雑していると聞いていたが、開館時刻が午前9時だったので、午後は比較的すいていると高(たか)をくくっていたのだ。
ところが、武男が駅の改札口を出て博物館の方へ歩いていくと、すぐに人の長い行列が見えた。それは延々と続いているようだ。 しまった! 一瞬そう思ったが誰かに聞くのも野暮なので、彼は行列に沿うように歩いていった。
これは間違いなく「ゴッホ展」に来た人たちだ。武男はそう思いながら、今日は引き上げようかとも考えた。しかし、せっかく来たのだから博物館の入り口まで行ってみようか・・・彼は決めかねたまま、ただ漫然と歩いていった。
行列はもちろん博物館へと続いていた。道路の角を3回ぐらい曲がっただろうか、延々と続く人の列に武男は驚いた。こんなにも「ゴッホ展」は人を魅了するのだろうか・・・そう思いながら、彼は入り口近くでしばらくたたずんでいた。なにか“熱気”のようなものを感じるのだ。
<注→ この「ゴッホ展」はオランダの某美術館と東京国立博物館、それとY新聞社が主催したもので、この年(昭和33年・1958年)の10月から11月にかけて開かれ、フィンセント・ファン・ゴッホの作品が130点ほど出展されていた。日本では初めてのゴッホ展である。>
高校2年の武男は以前からゴッホの絵画に憧れていたが、こんなに大勢の人が押しかけるとは思いもよらなかった。今日はもう帰ろうかと思ったが、不意に、ある考えが彼の心をよぎった。そうだ、行列に割り込めばいい!
もちろん、割り込みは良くない。不正な行為だ。しかし、その考えが芽生えると、彼はもう居ても立ってもいられなくなった。もし誰かに注意されたら、その時は「すみません!」と言ってすぐに退散すればいいじゃないか・・・ そう決心すると、武男はゆっくりと行列に近づいていった。
心臓の鼓動が速く、高まった感じがする。しかし、彼は上辺(うわべ)は平然として列に紛れ込んでいった。博物館の入り口の手前はちょうどカーブになっていたから、入りやすかったのかもしれない。
そうは言っても、近くにいる人は“割り込み”には気づくはずだ。しかし、誰も武男に声をかけてこない。彼は入場券の販売窓口の手前まで来た。まだ油断はできない。ここで誰かに叱責されれば、もう入場はできないのだ。
緊張感が高まる・・・ 彼はポケットから150円を取り出すと、窓口に差し出した。入場券が手渡される。それを握りしめるようにして武男は入り口を通過した。もう大丈夫! ここで誰かに注意されても、博物館の中へ逃げ込めばいいのだ。
彼は安堵して、ゆるやかなスロープを上っていく。始めはゆっくりと歩いていたが、やがて“速足”で博物館に駆け込んだ。 中は大勢の人でごった返しているではないか。しかし、武男は人混みに紛れ込んでかえって安心した。さあ、心ゆくまでゴッホの絵を鑑賞するぞ~~
<ここで、彼は幼なじみの新庄春恵のことを思い出していた。彼女とは“文通”でゴッホ展のことを語り合っていたが、その話は後述する。>
場内は人々の熱気でむせ返るような感じだ。ただ、始めはあまり面白くなかった。ゴッホのオランダ時代なのか、ほとんどの絵画が“デッサン”で単調なものだ。人物や風景、動物の素描など。これがゴッホの絵なのかと思いながら、人混みに押されつつ見て回る・・・
やがて、場面は一変した。明るく鮮やかなアルルの時代がやってきた! あの有名な『跳ね橋』や『ひまわり』『糸杉』『オリーブの木』などが展開する。
「わ~、きれい!」などの歓声が周りから聞こえる。 ほとんどが油彩だ。武男はゴッホのアルル時代の絵が最も好きだったので、感動し満足した。
あとはゴッホの作風やモチーフなどの解説図を見て回ったが、どこへ行っても人、人、人の波だ。連日、1万人以上の人たちが訪れるという。日曜のその日は特に混雑していたのだろう。こんなにも愛される画家はほかにいないと武男は思った。
ゴッホ展をたっぷりと鑑賞して彼は家路についたが、博物館を出る時、自分が“割り込み”入場したことを少し恥じた。しかし、それもつかの間だ。彼は電車に乗り込むと、ゴッホ展の模様を新庄春恵に早く伝えようと思うのだった。
2)幼なじみ
浦和(現在のさいたま市)の自宅に戻ると、武男は春恵に宛ててすぐに手紙を書き出した。しかし、興奮していてなかなか思うように書けない。ゴッホの全ての絵画が武男の脳裏に覆いかぶさってくるのだ。
彼はしばらく休んで、心の整理に努めた。気を取り直して、今度は博物館の模様や人出から書き始める。そうするとようやく落ち着いてきたが、割り込み入場のことだけは書かなかった。それだけは春恵に知られたくなかったからだ。
あとは気に入った絵画や場内の感想、絵はがきを記念に買ったことなどに触れ、最後にこう書いた。
「ゴッホ展は12月初旬から京都市美術館でも開かれますが、都合がつけばぜひ見に行ってください」
翌日、新庄春恵にかなり長文の手紙を出したあと、武男は彼女が必ずゴッホ展を見てくれるだろうと信じた。 春江はいま、滋賀県大津市で高校生ながら“下宿生活”をしている。大津から京都へは国鉄ですぐに行ける距離なのだ。
彼女の父親は武男の父と同じ某生命保険会社に勤めているが、名古屋支店の時代に上司・部下の関係で親密になった。その当時、2人の家族は同じ社宅地域に住んでいたので、武男と春江は幼稚園の頃から“幼なじみ”として育った。
2人は小学校も同じだったが、武男は父の転勤で1年の時に浦和へ引っ越してきた。 一方、新庄家も松本(長野県)や横浜、大津などに移り住んでいたが、今は姫路(兵庫県)の在になっている。実に転勤の多い会社なのだ!(笑)。
しかし、春恵は姫路には行かず大津に留まった。それはここの膳所(ぜぜ)にある県立Z高校が学業のレベルが高いため、両親と春恵が相談した結果、将来のことも考えて彼女は下宿生活をしながらZ高校に通うことになった。
そういう話を母から聞いて、武男は幼なじみの春恵に余計に好感を持った。2人はいつしか文通を繰り返すようになったが、それは双方の自然な望みだったのだろう。
「春恵さんは一人暮らしだから、誰か話し相手が欲しいのよ」
母の久乃が武男を“諭す”ように言う。なんにでも夢中になる息子にブレーキをかけるような言い方だが、武男は別に気にしなかった。彼は春恵からの返事を淡い気持ちを抱いて待っていたのである。
それから数日して、春恵からの便りが届いた。けっこう早かったので、彼女はすぐに返事を書いたのだろう。 封筒には最近 友だちと一緒に撮った彼女の写真が数枚入っていた。武男が自分の写真を時々送るので、彼女もそれに倣っているようだ。
すぐに手紙を読むと、春恵はこう書いていた。
「ゴッホ展に感動された貴方の様子がよく分かる気がします。私も12月になったら、ぜひ京都へ行って見るつもりです。
そうしたら、感想やその時の模様を報告しますね。楽しみに待っていてください。
こちらは特段のことはありませんが、だんだん寒くなってきますので、お体には十分気をつけてお過ごしください。」
簡単な文面ではあったが、いつもの春恵らしく伸び伸びとした字体が武男の心をなごませた。また、彼女の写真は学校の制服姿だが、ほかの生徒に比べどこか“清楚”に感じる。それは、彼が好意を持っていたから余計にそう感じたのだろう。
3)文通
こうした文通は、実は武男がドイツ(当時は『西ドイツ』)の女学生と始めたことが遠因になっている。高校生向けの学習雑誌に、英語で文通を希望する各国の生徒の名前が載っていた。彼はたまたまドイツの女子生徒を選んだわけで、ほかに他意はない。
外国の女学生への憧れみたいなものはあったが、とにかく自分の“英語力”を試してみたかったのだ。それには、アメリカやイギリス以外の女性が良いだろう。自分の拙(つたな)い英語力では、その方が適切だと思ったからだ。
相手の女学生はヘルガ・グローベルと言って、武男と同じ17歳だった。彼女に文通を希望すると、すぐに承諾の返事がきた。そこで英和・和英辞典と首っ引きで彼は手紙を書いていった。たしかに、英語の勉強にはなる。
こうして始まった文通が確実に続いて、ある時、武男はそのことを“自慢げに”春恵に明かしたことから、彼女との文通もスタートしたのだ。こちらは日本語だから実に簡単だ。まして幼なじみなので気楽であり、話は尽きなかった。
春恵が学業で非常に優秀な女学生であることは、母の久乃からよく聞いていた。なんでもZ高校で第2学年の“首席”になったというのだ。これは春恵の母が久乃に伝えてきたことで、それを知ると武男は彼女に尊敬の念を抱くようになった。
ある時、彼は春恵宛ての手紙で冗談半分にこう書いた。「あなたは将来、キュリー夫人のようになるのですね」と。すると彼女は真(ま)に受けたのか、「とんでもない! キュリー夫人だなんて・・・」と、返事の中に書いてきた。
春恵は決して美人という感じはしなかったが、聡明で清純、真面目で健康な印象を与えてくれる少女だった。 だから、武男は必要以上に“背伸び”している自分を意識した。彼の学業はクラスでも真ん中ぐらいだから、彼女にはとうてい及ばない。それなら、ほかの分野で自分が優秀だとアピールしたかったのだろう。
武男はことさら「文学」の話をした。これなら春恵には負けないと思った。トルストイやロマン・ロランなど、世界の文豪の話を披歴して彼女を煙(けむ)に巻くような手紙を書いた。要するに“大風呂敷”を広げたのだ。
これに対して、春恵は誠実に応えたと思う。彼女は寸暇を惜しんでトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読み切ったようだ。
「はじめは素敵な女性だと思いましたが、だんだん嫌になりました。最後は読む気になれませんでした。ああいう女性はどうなのでしょうか・・・」
春恵は男女の“不倫”に嫌気が差したのだろうか、厳しい評価を下したのである。 一方、彼女が読んでいても、武男が未読のものがあった。
「三島由紀夫の『潮騒』はどうでしたか。もし読まれていないなら、ぜひお勧めします」
ベストセラーになった本を春恵が勧める。主人公の若い男女2人がめでたく結ばれるのだから、彼女は推薦したのだろうか。武男はそれに従って『潮騒』を読んだ。
こうして文通を交わすうちに、東京での「ゴッホ展」が京都に移ることになった。東京では連日1万人以上の観客が詰めかけ、大盛況になったゴッホ展が話題を集めたが、京都でもきっと大勢の人が押しかけるだろう。
武男はそう思いながら、12月に入って春恵からの手紙を心待ちにしていた。
ところが、彼女からの返事はなかなか来なかった。きっと学期末テストなどで忙しいのだろうと思っていたが、少したって、今度は西ドイツ(当時の呼称)のヘルガ・グローベルから手紙が届いた。
ヘルガからの便りは久しぶりだが、1年の終わりだからなのか、いろいろ詳しく書いてある。しかも、最近 撮った写真も数枚入っていたので武男は楽しい気分になった。
彼女はこの1年を振り返っていたが、特に印象に残ったのは以下の文章だ。武男の日本語訳ではこうなる(拙訳を勘弁していただきたい)。
「年末になって特に思うのは、私たちドイツ民族のことです。ご承知のようにドイツは“東西両国”に分裂しています。これが一日も早く統一されることが、私たちの心からの願いです。
親戚や古くからの友人たちが、東西ドイツに離れ離れになっている例は数多く見られます。こうした不幸が、一日も早く解消されることを願ってやみません」
だいたいこのような内容だったが、武男はヘルガの文章を読んで深く感じるところがあった。分裂国家はほかにもあり、そこに住むほとんどの人がそう思っているだろう。
しかし、現実は厳しい。東西ドイツはもとより南北朝鮮、南北ベトナムも一向に統一される気配はない。いや、“冷戦時代”になって分断がますます固定化されているのだ。武男はドイツ統一など“夢物語”としか受け取れなかった。
しかし、彼はヘルガへの返事の中で、「あなたが言うように、ドイツが一日も早く統一されることを願っています」と書いておいた。 それは日本が敗戦後、もし分裂国家になっていたらと思うと、ゾッとするような気分になったからである。
ヘルガへの返信が終わって、武男はひたすら春恵からの手紙を待ち受けていた。そして12月も末になって、彼女からの手紙がようやく届いた。彼は急いで封を切ったが、もちろん京都のゴッホ展のことが気にかかっていたからだ。
手紙は簡単な挨拶のあと、ゴッホ展について次のように書いてあった。
「24日・水曜の午前中に、京都市美術館に行きました。貴方が言っていたとおり大変な人出で、40分ぐらいかかって会場に入りました。(中略)
私は『ひまわり』やゴッホの『自画像』など人物画が好きになりました。とても親近感が持てますね。もちろん、アルルの風景画なども素晴らしいと思います。
帰りの電車が気になってゆっくりと見られませんでしたが、ゴッホ展に行けて良かったと思います。きっと大切な思い出になることでしょう」
春恵の手紙は淡々としていて、武男が期待していたほど感動的なものではなかった。しかし、彼女も同じゴッホ展を見に行ってくれたという満足感が残った。あとは近況報告で、春恵は歳末の30日ごろまでに姫路の実家に帰るという。
手紙の最後に「来年もどうぞよろしく」と書いてあったので、武男は彼女が翌年の1月上旬に大津に戻るころを見計らって、返事を書こうと思った。 こうして、1958年・昭和33年は幕を閉じた。
<参照⇒ 「日本最初のゴッホ展」・・・https://blog.goo.ne.jp/k-caravaggio/e/393543f446bf6d93829fe77b245c641e>
4)姫路にて
それから数カ月たったある日、武男は母(久乃)から思いがけないことを聞いた。春恵の母・美代子の話で、彼女がアメリカとの交換留学制度のアメリカン・フィールド・サービス(AFS)の試験を受けるというのだ。
この当時、交換留学はほんのわずかで、日米の高校生が1年に8、9人ほど行き来した程度である。武男は春恵から何も聞いていなかったが、美代子は“自慢の娘”のことなので久乃に話したかったのだろう。
びっくりした武男はすぐに手紙で春恵に尋ねた。彼女の返事は「試験を受けるだけ」なので知らせるにはまだ早い、もし合格したら知らせるつもりだったというものだ。そして「母は“おしゃべり”だから困る」とも書いてあった。
慎重な春恵らしい返事だったが、武男は優秀な彼女なら十分に合格できるのではと思った。
それから2カ月近くたっただろうか、武男はAFSのことが気になっていたので、いろいろな情報を手に入れた。それによると分かっているだけで、彼が通うW大学付属高等学院や2つの都立高校から、3人の男子生徒がAFSを受験するという。海外留学への関心がかなり高まっているのだろう。
春恵の話では、彼女は教師の勧めで受験を決めたというが、最終的にはもちろん本人の意思や両親の同意があって決めたことだ。 武男は彼女に合格してほしいと思う反面、1年間アメリカへ行ってしまえば寂しくなるとも思った。とにかく、なるようになるさと思いながら結果を待つことにした。
そして、6月の末だったか、第一報は美代子から久乃に電話で届いた。
「春恵さんが合格したって!」
久乃がわがことのように嬉しそうに言った。これを聞いて武男は、ついにやったかと思い、すぐに彼女宛ての手紙に祝意を表わした。あとで聞くと、前述の3人の男子生徒は不合格だったという。
こうして、春恵のアメリカ留学が決まったが、一つ気になったのは、彼女が“1年留年”するということだ。 だが、これは仕方がない。彼女が選んだ道であり、海外留学でなにか得がたいものをきっと学んでくるだろう。
武男はそう思いつつ、春恵が難関を突破したことを心から素晴らしいと評価した。そして、彼女への想いが、友愛から次第に“崇敬”へと変わっていくのを感じた。そうだ、春恵は今や日本の高校生の憧れの的になったのではないかと。
幼なじみの彼女が、なにか手の届かないところへ行ってしまうような気がした。武男はそう感じると、春恵が日本にいる間になんとかしなければと思うのだった。
それから1カ月ほどして夏休みに入った。武男は特にすることもなく家にいると、姫路の実家に帰った春恵から手紙が届いた。
「武男さん、お元気ですか。 私はいま実家に戻り、アメリカへ行く準備に取りかかっています。
予定では8月20日ごろ、横浜埠頭からアメリカへ行くことになります。そこでお願いですが、もし貴方に時間がおありでしたら、一度 姫路の方へお越し願えませんか。
貴方にお会いしたいのです。そして、ゆっくりとお話ししたいのです。また、時間が取れれば、姫路の近辺をご案内したいと思っています。
勝手なお願いですが、ぜひお考えください。ご返事をお待ちしています。春恵より」
だいたいの内容は以上だが、春恵の熱い想いが伝わってくる。武男は無性に姫路へ行きたくなり、すぐに母に相談した。しかし、久乃の態度は冷ややかなものだった。
「向こうも忙しいのよ、ご迷惑になるんじゃないの」
そう言って、取り合おうとはしない。母は何事にも夢中になる息子の癖を知っているから、ブレーキをかけようとしたのだろうか。それもあって、武男は春恵への返事の中でこう書いた。
「とても行きたいのですが、母が慎重で消極的です。だから、どうしようか迷っています」と。
これに対し、数日後に来た春恵の手紙は非常に情熱的で悲痛なものだった。
「来てくれなければ嫌です! ぜひ来てください、お願いします!・・・」
そういう内容だったので、武男はついに姫路に行くことを決意した。
8月上旬の某日朝、彼は両親に内緒で家を出、東京駅から久乃に電話をかけたあと列車に乗り込んだ。
そして、その日の夜遅く姫路駅に着くと、春恵と1歳違いの弟・太郎が迎えに来ていた。久乃が美代子に連絡したから、2人が出迎えに来たのだ。春恵が嬉しそうに右手で武男の左手首を握ったので、彼は一瞬ギクリとした。
3人はタクシーに乗って社宅の家に着いたが、遅い時間なので武男は春恵らの両親に挨拶したあと、すぐに入浴して就寝した。
こうして、彼は新庄家にお邪魔する形になったが、なぜか気が重い感じがする。春恵の呼びかけに応じて来たのに、両親の一郎や美代子に監視されているような気がするのだ。
翌日の午前中、武男は春恵や太郎と雑談を交わしていたが、急に姫路城を見たくなった。彼は一人で出かけると、解放された気分になった。城の内外をたっぷりと見学したあと新庄家に戻ると、春恵が少し不機嫌そうな顔をしている。
「姫路城はやはり素晴らしかったね、行って良かった」
武男がそう言っても彼女は黙ったままだ。置いてきぼりにされたのが、癪(しゃく)に障ったのだろうか。
そして、夕食のあと2人と太郎がまた雑談を交わしていると、一郎が部屋に入ってきて言った。
「もう遅いぞ、いい加減に寝たまえ」
父親にそう言われると、あまり遅くまで話している気にはなれない。3人は間もなく雑談を切り上げてそれぞれの部屋に戻った。
翌日の朝食の時間に、美代子がこう言った。
「小豆島もいいけど行くのに少し面倒だから、今日は六甲山(ろっこうさん)の方に行ってきなさいよ。それでいいなら、次郎も一緒に連れてってね」
次郎というのは春恵の6歳下の弟だが、彼女や武男に異存はないので、美代子から“小遣い”をもらい3人で出かけることになった。
真夏の太陽がジリジリと照りつけるなか、電車やバスを乗り継いで彼らは昼前に六甲山の麓に着いた。ここからケーブルカーで山頂の方へ上る。
武男と春恵が黙りがちなのに対し、まだ小学生の次郎だけがはしゃいでいる感じだ。
「僕、ここは初めてだ。早く行こうよ」と言って、真っ先にケーブルカーに乗り込んだ。
けっこう急な斜面をケーブルカーが上る。車窓からの風景を楽しんでいると、次郎が面白がって車内を行き来した。
「気をつけなさいよ」と春恵が注意したが、次郎はほとんど気にしない。
ケーブルカーが10分余りで終点に着くと、3人はすぐに展望台に向かった。そこからの景色は素晴らしく、眼下に、神戸の街並みが手に取るように分かるのだ。
このあと、3人は昼食をとるためレストランへ向かったが、途中で案内板を見かけた春恵が吹き出した。
「カンツリー〇×ですって」
“カンツリー”がおかしかったのか武男も笑ったが、彼はすぐに言い返した。
「でも、木のtreeもツリーと言うじゃないか、クリスマスツリーとみんな言うよ」
「そうね、トゥリーでもツリーでも同じだわ」
「君はアメリカへ行くから発音にうるさいんだ」
そう言って、武男がまた笑った。気持ちがほぐれたのか、彼は春恵と雑談を交わすようになった。
レストランで軽い昼食を済ませたあと、3人は六甲山巡りを続けた。次郎は好きな所へ走って行ったり、山の斜面を滑り落ちるなど遊んでいる。
春恵は景色を楽しんでいるようだが、武男は“夏風邪”を少しひいたせいかだんだん不機嫌になっていった。それに真夏の高温と陽光が凄まじく、彼は疲れを感じて無口になった。
帰路、電車は混んでいた。もちろん座れない。ふて腐れた武男に春恵が言葉をかける。
「疲れたのでしょ?」
しかし、彼は押し黙ったまま返事をしない。春恵はもう話しかけるのを諦め、武男の様子をうかがうしかなかった。こうして、電車が姫路駅に着き3人はタクシーで帰宅したが、武男の“わがままぶり”に春恵は心を痛めるばかりだった。(続く)