昨日12月7日(金)より、泉佐野市議会の12月定例会が始まりました。
今回も、問題のある議案が山積です。
この12月議会に提案されることが予告されていた「職員基本条例」は、労使協議が行われていない下でどうなるのかと思っていましたが、そんなことはお構いなしとばかりに上程が強行されました。中身は大阪府・市で「橋下・維新の会」が強行したものと同質です。
そしてさらに、国旗掲揚・国歌斉唱を強制する「泉佐野市の施設における国旗の掲揚および教職員等による国歌の斉唱に関する条例」というのまで出てきました。内容は大体、次のとおりです。
1.市の施設には利用者の見やすい場所に国旗を掲げる。
2.市立学校の行事において行われる国歌の斉唱にあっては教職員は起立により斉唱を行うものとものとする。(身体上の障害などで支障があると校長が認めれば除外。)市の職員(特別職を含む。)についても準用する。
これまでも議会で、市長や一部の議員が、小中学校の卒業式・入学式で来賓として出席している議員の中に起立しない人がいることを「遺憾」「来賓として招かないようにするべき」などと攻撃していました。歌詞の意味もよくわからない子どもたちであるからこそ、「なんであの人立って歌ってないのかなあ?」と疑問に思うことから、なんでも右へ倣えではない、「自分で考え判断する」力を養っていってほしいと私は思うのですが。
私も我が子の入学式・卒業式ではずっと、国歌斉唱は座っていました。議員となってからも、初めはそれを続けていました。しかし議員団で話しあって「起立だけする。」ことにして、最近は立っていました。起立しないことを大げさに取り上げる風潮が強まって、そんなことで大人が揉めているのは、主人公である子どもたちに申し訳ない思いもあってのことです。
でも本当は、「起立しないこと・歌わないこと」にはとても大きな意味があって、歴史の過ちを繰り返さないで、という「未来の世代」への祈りからです。式でそんなことを説明することはできないので、目立つ行為を避けていただけ。
こんな条例がなくても、すでに教職員のみなさんはがんじがらめです。それならば、平和な未来への責任を負う大人として、せめて私は想いを行動に表すべきなのでは、と今考えています。
今回も、問題のある議案が山積です。
この12月議会に提案されることが予告されていた「職員基本条例」は、労使協議が行われていない下でどうなるのかと思っていましたが、そんなことはお構いなしとばかりに上程が強行されました。中身は大阪府・市で「橋下・維新の会」が強行したものと同質です。
そしてさらに、国旗掲揚・国歌斉唱を強制する「泉佐野市の施設における国旗の掲揚および教職員等による国歌の斉唱に関する条例」というのまで出てきました。内容は大体、次のとおりです。
1.市の施設には利用者の見やすい場所に国旗を掲げる。
2.市立学校の行事において行われる国歌の斉唱にあっては教職員は起立により斉唱を行うものとものとする。(身体上の障害などで支障があると校長が認めれば除外。)市の職員(特別職を含む。)についても準用する。
これまでも議会で、市長や一部の議員が、小中学校の卒業式・入学式で来賓として出席している議員の中に起立しない人がいることを「遺憾」「来賓として招かないようにするべき」などと攻撃していました。歌詞の意味もよくわからない子どもたちであるからこそ、「なんであの人立って歌ってないのかなあ?」と疑問に思うことから、なんでも右へ倣えではない、「自分で考え判断する」力を養っていってほしいと私は思うのですが。
私も我が子の入学式・卒業式ではずっと、国歌斉唱は座っていました。議員となってからも、初めはそれを続けていました。しかし議員団で話しあって「起立だけする。」ことにして、最近は立っていました。起立しないことを大げさに取り上げる風潮が強まって、そんなことで大人が揉めているのは、主人公である子どもたちに申し訳ない思いもあってのことです。
でも本当は、「起立しないこと・歌わないこと」にはとても大きな意味があって、歴史の過ちを繰り返さないで、という「未来の世代」への祈りからです。式でそんなことを説明することはできないので、目立つ行為を避けていただけ。
こんな条例がなくても、すでに教職員のみなさんはがんじがらめです。それならば、平和な未来への責任を負う大人として、せめて私は想いを行動に表すべきなのでは、と今考えています。