花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

それぞれの役割と責任│山本周五郎人情時代劇、第十話「泥棒と若殿」

2017-09-14 | アート・文化


いつか成信は眼を伏せていた。久左衛門は声をやわらげ、そっと息をついて続けた。
-------人間には身分のいかんを問わずそれぞれの責任がある。庶民には庶民の、侍には侍の、そして領主には領主の責任を果してこそ世のなかが動いていく、領主となって一藩の家臣をたばね、領民の生活をやすんずるよき政治を執るということは、市井のひとになるよりは困難で苦しい。しかし大殿も先大殿も、その苦しい困難な責任を果された。-----気まま安楽に生きたいと思うまえに、自分の責任ということも考えねばならぬであろう。われわれ同志ばかりでなく、一藩あげてあなたを待っている。みんな手をさしのべるおもいで待っているのである。
-------久左衛門はこう云って、涙でうるんだ眼でじっとこちらを見まもった。

(泥棒と若殿 /『人情裏長屋』, 191-192)

BSジャパン開局15周年特別企画・火曜スペシャル、山本周五郎人情時代劇、第十話「若殿と泥棒」の放映を8月29日に視聴した。冒頭は、七万五千石某藩、大炊頭成豊の二男に生を受けた若殿・成信が、城にお迎えするべく参上した使者に対峙する場面である。兄の成武が若年に病を得て藩政に耐えうる人材でないのを幸いに、江戸の筆頭家老、滝沢図書助は成武を傀儡藩主に擁し藩を我が物にせむとたくらみ、大炊頭が卒中に倒れた後に成信を化物屋敷同然の廃屋に幽閉した。大炊頭の側用人、梶田重右衛門率いる一派は迫害を受けながらも大炊頭の御意を受けて成信を守り抜き、ついに悪辣な滝沢一党を下して継嗣問題に決着をつけた。やっと巡り来た晴れの日に継嗣を断ると言う成信を拝して、畏れながらと梶田派の重臣・久左衛門が御進言申し上げたのである。
 素直で明朗さを失わない育ちの良さをみせる、若殿・成信(ユキリョウイチ、敬称略、以下同文)と、これまた世間の隅で翻弄されても性根は曲がらない、泥棒・伝九郎(赤井英和)の二人の俳優さんが絡んで醸し出す味は絶妙であり、原作の人物造形をはるかに熟成させた好演である。武士道を絵に書いたような、中老・室久左衛門(佐戸井けん太)の清廉実直な侍のたたずまいも良い。

当初、牢獄さながらの破れ山荘に餓死寸前に放置されたまま、時には襲撃で暗殺の危険にさらされてきた成信は、もはや好きなようにせいと全てを投げ出す気持ちになっていた。なるようになれと腹を括って寝ていたある満月の夜、そのようないわくつきの屋敷とはつゆ知らず、一人の間抜けな泥棒が忍び込んでくる。縁側の広板を踏み鳴らすは、踏み破って怪我をしては大仰に喚くという、プロの盗人にはあるまじき有様である。誰が聞いてもそれはお芝居とばれる様な拙い脅しをして見せた泥棒であったが、本性は心優しく質朴な人柄であったらしく、終いには押し入った先の住人のあまりの生活ぶりに同情する。そして生きる意欲をすっかり失っていた成信は、その泥棒・伝九郎に食事も含めてかいがいしく生活の世話を受けることになる。
 伝九郎は江戸の下町生まれで、「元来、にんげん遊んで食って天道さまに申しわけがねえ」という信条の男である。世間の不人情にいたぶられて多くの職を転々とし、底辺社会の辛酸を舐める内にやけっぱちになり、初めて泥棒に入った屋敷が成信が捉われている廃屋という次第であった。成信と生活するようになり、やがて定職をこの地に得て、彼は彼なりに成信との生活に生きがいを見出してゆく。

一方、権力争いに翻弄されて来た成信は、いつしか信(のぶ)さん、伝九(でんく)と呼び交わして暮らす日々の中で、誰の傀儡にもならず市井の人として、ありのままに過ごすことに希望を見出していた。この様な時に父君の大炊頭が他界し、伝九郎とともにこの地を出奔して何処かで人間らしい慎ましい生活をすることを考え始めていた折、奸臣一派がようやく成敗されたと告げて、梶田派の重臣、室久左衛門が一党を率いて来訪する。
 城へ戻ることをきっぱりと断られても、御家のため、藩内の政治を建てなおすため、領民のため、この日のために身命をなげだして働いて来た者たち全てを見捨てて、おのれ一人の安穏のために生きるのかと、久左衛門は人間のあるべき道を切々と説いて引き下がらない。
 ドラマでは此処は原作と異なり、かつて伝九郎が投げた啖呵を成信が思い起こすシーンが挿入されていた。貧しいが故に幼少時に弟を失わざるを得なかった事に対し、それはもう忘れよと述べた成信に対して、忘れられるものか、食うや食わずの毎日で家族を救えなかった、この様な世の中にしちまったお侍なんかに、俺たちみたいな者の気持ちがわかる訳がないと、伝九郎は血を吐く思いを成信にぶつけたのであった。
 その言葉を上に立つ武士としてふたたび脳裏に深く刻んだ成信は、伏せていた面を挙げて、わかった、城へ帰ろうと静かに答える。九左衛門はじめ平伏していた一同は若殿の御言葉に耐えかねて、感極まり一斉に啜りなく。久左衛門が御進言申し上げた、人が皆、それぞれの責任を果たすが故に世の中が動いてゆくということを、そして自分が果たすべきノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を成信はしかと心に受け止めたのである。



命の恩人というべき伝九郎の行く末を頼み、名残を惜しむために今宵はここに留まると述べて迎えを引き取らせた成信は、その夜、初めて竈で飯を炊いて汁をこしらえ、自分の手で夕飯の準備を仕上げてみせる。帰って来た伝九郎は大いに驚いてその訳を聞くが、たいした訳はない、長く世話になった伝九に一度くらい煮炊きをして食べてもらいたかったからだと成信は告げて、別れの宴という真意は明かさない。
 この時に原作にあってドラマには描かれていない、伝九郎が漏らす感慨が興味深い。武士の世が長く続いたのは、取り締まる御法度があったからではなく、武士がだんびらを帯びていたからでもないことをうかがわせる言葉である。
「お侍は恐えてえことを云うがまったくだな、すまして肩肱を張ってるが、いざとなれあこんなこともできるんだ、やっぱり修業てえものが違うんだな」(同, p194)

そして一夜が明けて朝まだき、いびきをかいて眠り込んでいる伝九郎に一礼し、成信は身支度を整えて前庭に出てゆこうとする。気配を感じて起き出した伝九郎は、信さん、おめえいっちまうのかと声をかける。成信は背をむけたまま、おれは武士として精一杯生きたいと思った、人間生きているうちはどんなことをしても精一杯いきなければならんと、生きる力を教えてくれたおまえのお蔭だと礼を言う。
 そうか、それならもう止めねえよ、いつかこんな日が来ると思っていた、どうか立派に出世してくんな、と静かに述べた後、伝九郎はさらに訥々と成信の背に話しかける。ここは原作よりもはるかに成信に呼びかける言葉が増えている。弟に対して抱く兄の思いに近寄せて描かれた、身分を越えて伝九郎が成信に抱いた惻隠の情が胸を打つ。

------ちっとやそっとで弱音をはくんじゃねえよ、もうおまえの話を聞いてやれねえのだからな。
------魚ばっかりじゃなくて菜っ葉もたくさん食えよ、身体によくないからな。
------どうしようもなく寂しい時があったら何時でも帰ってきてくんな。おれは待ってからよ。

 成信は振り返らぬまま、これらに逐一おうと答えるのだが、次第に胸に迫り言葉に詰まり、少しずつ返答が遅れてくる。やがて思いを振り切り返り見ることなく、二度と戻らない屋敷の門を出てゆく成信、そして再びまみえることのない姿を、涙をこらえ万感の思いで見送る伝九郎である。



ドラマの最終シーンは、前夜から控えていたらしい若侍とともに、成信が堤を歩き去る姿の遠景である。朝焼けの空を見上げる成信、そして空には三日月が掛かっている。原作では成信が屋敷を後にするのはその日の真夜中であるが、若殿の新たな旅立ちは、ドラマに描かれた様に朝がむしろ相応しいと感じた。だが明け方の空に三日月が出ているだろうか。それも承知の上で、満月に向かい成長してゆく三日月に設定なさった気がしている。
 武士と三日月と云えば、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った山中鹿之助である。若殿・成信は伝九郎との生活を通して人情、世情の機微を知り、行路の艱難を自らの役割、責任と引き受けて帰城を選びとった。この後、若殿は世に秀でた名藩主になられたに違いない。

参考資料:山本周五郎:新潮文庫『人情裏長屋』, 新潮社, 1977