80年その年の秋、僕の知り合いが一人自殺した。5.17事件に連座した嫌疑で数か月間の逃亡生活の果てだった。ピョクジェ火葬場で彼が一つまみの灰に変わるのを見守りながら、詩に対する胸を焦がしていた熱情が灰になって風の中にあっけなく飛び散るのを感じた。運命が方向を変えた瞬間だった。
翌年3月27日僕は軍に入隊した。そして入隊と同時に詩を捨てた。これほど長く僕を捕らえていた詩を捨てるようになった、そのころの心情についてはこれ以上言及する必要はないだろう。時局という名でそのように多くの若者が散るのを見守っている間、凝縮美を重視する詩が自然にほどけて、僕の心の中で物語をつぶやき始めたからだった。その時、小説を書く決心をした。そして警戒軍務に立ちながら、陸軍手帳に小説を書いたのが発覚し営倉待機処分を受けたこともあった。とにかく詩から小説に領域を変えるようになった険しく数奇な僕の運命については、言いたいことが多いけれど結局話しても話さなくても一つの話だということがわかるから、これ以上の言及は省略しよう。
1984年10月24日午前2時40分、僕は石炭の山が視野をふさいだファンジ駅(現在のテベック駅)を出た。晩秋の雨がしとしとと降っていたが、周辺の風景はもはや真冬を髣髴させた。海抜600メートル、5月でも雪が降るという高山地帯に僕はおよそ3年間人生勉強をするつもりで初めて足を踏み入れた。軍を除隊した教師志願者には任地に対する優先選択権があるにもかかわらず、小説を書くという抱負から「人生勉強」という通過儀礼を追加したのだった。計画が思い通り実践されれば、およそ3年ここで子供たちを教えながら小説を書いて文壇デビューするようになれば自然とここを離れる予定だった。そんなことを称して「青雲の夢」と言っていたのか。
僕が考えた鉱山村も一種の幻想だった。そこに赴任するや否や担任を引き継ぎ、すぐにそれを悟った。1クラスに退学者が13名も出て、1年に全校の退学者が200名以上出てくるという鉱山村の中学。そんな所で小説を書こうと決めた僕の夢は、贅沢すぎる夢だった。1クラスの3分の1ほどが欠損家庭の子供であることを見て、小説を夢見る僕が二重人格者のように思うこともしばしばだった。時にはブルジュア文学への転向を夢見るでたらめな野心家のようで、学校で過ごすすべての時間が針のむしろのように痛く感じられた。
結局そこで3年間小説を1行も書けなかった。夢と現実の間の戦いに勝てないまま、日々酒を飲んだ。そして青春の岐路に立って何か選択しなければならないという切迫した心情に悩まされ始めた。大学卒業年度の時も岐路だったが、教師生活3年が過ぎて1987年になるや世の中は再びひっくり返った。1980年5.18事件の頃には教生実習中だったが、1987年の6.29宣言の頃には45日間の1級正教師の資格研修を受けなければならない立場になっていた。