読書感想147 本能寺の変―431年目の真実―
著者 明智憲三郎
生年 1947年
出版年月日 2013年12月15日
感想
明智光秀の子孫と名乗る著者が本能寺の変の定説に異を唱え、本能寺の変の真実を解き明かそうとした労作である。
著者は、信長が光秀を執拗に苛めたことによる怨恨や自ら天下を狙おうとした野望が謀反の動機になったという定説を否定している。定説の元になっているのが、本能寺の変から4ヶ月後に秀吉の命で書かれた「惟任(これとう)退治記」である。その中で信長が「光秀が自分を怨んで殺す」と言ったことが怨恨の証拠であり、「時は今あめが下しる五月かな」(土岐が天下を統べる)と光秀が詠んだ連歌を天下取りへの野望の証拠であるとしている。そして謀反は光秀の単独犯行だと結論付けている。この「惟任(これとう)退治記」を底本にして江戸時代の軍記物「明智軍記」で創作を膨らませて、虚構の明智光秀像が拡散され、定説にされたと言う。
本書では光秀のような知略に優れた武将が、怨恨や野望といった三面新聞的な動機で決起したとは思えないというのが、本書を書く動機になっている。信長と光秀の関係は良好で光秀は側近の扱いを受けていた。武田勝頼を滅ぼして安土への帰路に駿河、三河という徳川家康領を通った信長の脇には光秀が控えていた。著者はこれは物見遊山ではなく家康領を奪う意図があっての上の軍事視察だとしている。家康領を奪う役割を担うのは光秀であったろうと。信長は本能寺で実は家康を暗殺する計画を持っていたのではないかと推測している。それを知っていた光秀は長年の盟友の細川藤孝・忠興を説得して味方に引き入れ、安土に来た徳川家康と談合して謀反同盟を結んだと推測している。光秀の謀反の一番の動機は信長のあくことのない征服欲(唐入り)と功臣たちを弱体化させることに躊躇ない姿勢で、直接的な動機は姻戚関係にもある盟友の長宗我部氏を信長が滅ぼすのを止めることだったと推測している。
また有名な連歌はもともとは「時は今あめが下なる五月かな」(土岐は今五月雨にたたかれている苦境にある)だという。
著者はいろいろな資料を読み込んで新説を立てているのでとてもおもしろい。本能寺の変の証人としてイエズス会の記録を採用している。ただ、信長が家康を滅ぼそうと思っていたという点が一番の鍵になる。家康はほぼ信長の部下と同じだったはずだ。わざわざ滅ぼす必要はなかったのではないだろうか。ただ家康の領国を奪って家康を遠国に飛ばしたいと思っていた可能性はある。一方、家康が土岐明智氏に好意的なことは確かだ。明智一族に土岐氏を名乗らせて大名に取り立てたり、光秀の片腕の斉藤利三の娘、お福を3代将軍家光の乳母に取り立てたりもしている。しかも日光東照宮の紋には明智の桔梗紋が飾られている。なにか家康は明智光秀に恩義を感じているのかもしれない。