『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想255  守城の人―明治人柴五郎大将の生涯

2019-02-11 23:38:52 | 時事・歴史書

守城の人 明治人柴五郎大将の生涯 新装版

読書感想255  守城の人―明治人柴五郎大将の生涯

著者    村上兵衛

生没年   大正12年(1923年)~平成15年(2003年)

出身地   島根県

単行本出版年  平成4年(1992年)

出版社     (株)潮書房光人社 光人社NF文庫

☆☆感想☆☆☆

「ある明治人の記録」の柴五郎の生涯を描いた伝記である。「ある明治人の記録」では西南戦争の時期で終わっていたので、柴五郎自身もそうだし、4人の兄や斗南藩で苦労を共にした嫂のその後が知りたくて本書を手にとった。長男の太一郎は会津戦争で負傷し、落城後は五郎を連れて東京で抑留され、その後五郎と後添えにした幼い妻と老父を連れて下北半島の田名部へ移住した。そして斗南藩を代表してデンマーク函館領事から輸入米を買い付け斗南藩へ送った。ところがその仲介に当たった貿易商に代金を持ち逃げされてしまった。デンマーク領事は賠償を斗南藩に求め、太一郎と斗南藩を告訴した。太一郎は一身に罪をかぶり、斗南藩に累を及ぼさないようにしたため、獄につながれた。太一郎は7年間近代法制度が整うまで未決囚として拘禁された。その間に新妻とは離縁。釈放され警視庁に入って西南戦争に赴いた。その後三度目の妻と再婚し、安定した生活を送るようになる。藩校日新館の俊英と謳われた三男の五三郎は東京にいたが、太一郎の拘禁を知り、長男にかわって家族の面倒をみるために下北半島にやって来た。そして斗南藩が消滅した後、老父とともに会津に帰り、下級官吏として生涯を終えた。四男の四朗は結核のため白虎隊に参加できず、母親にお城へ行けと促され、城に向かったが入城することができずそのまま薩長軍に下った。東京でいろいろ書生をしたり思うにまかせなかったが、西南戦争で斗南藩の大参事だった山川浩(大蔵)中佐の下に見習士官待遇で従軍し、戦後に三菱の援助でアメリカ留学を果たし、ペンシルベニア大学で経済学の学位を受けて帰国。その後はベストセラー作家になったり、衆議院議員になったり政府や民間でも専門的な知識を生かして大活躍する。次男の謙介は会津戦争の中で、農民たちに殺害されたが、その詳細は五郎が出世してから詳しく知ることになる。

主人公は明治12年に陸軍士官学校の第3期生として卒業任官し、大正12年に退役するまで43年間陸軍で奉職した。明治大正期の対外戦争を実地に体験している。特に諜報活動に関心が高く、出世のためには陸軍大学に行けという勧めを蹴って、中国へ渡り諜報活動を展開する。そこで中国語と英語の実力を身に着け、陸軍幼年学校、士官学校で培ったフランス語の実力と相まって語学のエキスパートになる。柴五郎の名前を国際的に轟かしたのは1900年の中国の「義和団事件」である。「扶清滅洋」を旗印にする宗教結社「義和団」のキリスト教徒や宣教師への襲撃から始まった事件は、清の西太后が義和団と手を結んで清の官兵を使ってヨーロッパ列強の外交官や軍隊に戦いを挑むところまで事態は深刻化した。北京にいた欧米の大使館と日本の大使館は始めは義和団、そして清の官兵に襲撃されることになる。天津にいた外国軍隊が北京に来られず、後続の軍隊も天津に上陸できず、清の軍隊の攻撃を受け続けた。こうした中、北京の外交団は2か月間頑張って守り切った。その中心にいたのが、駐在武官だった柴五郎中佐。この時のイギリスのマクドナルド公使の柴五郎に対する信頼が日英同盟の締結につながったと著者は述べている。すべてのエピソードが臨場感あふれていて、とても面白い。著者ももともと陸軍幼年学校、士官学校の出身で、軍隊のことにも精通しているので、いい評伝が描けるのだと思う。


にほんブログ村

 にほんブログ村 写真ブログへ
にほんブログ村