きょうも朝があった、と思う。変な感覚だが、朝というものを改めて知る。そういう朝を、アサガオの花に気付かされる。のんべんだらりではなく、毎朝あたらしい花が咲く。あたらしい朝がある。これは素晴らしいことなのかもしれない。
いまは昼も夜も境いめもなく暑い。一日のうちに、はっきりとした区切りがない。朝らしい朝がなく、昼間らしい昼間がなく、夜らしい夜もなく、夢らしい夢も、見ているか見ていないかもわからない。ひたすら暑さに耐え、体も心も伸びきったようになっている。だからアサガオだけが、別の朝を生きているようにみえる。
アサガオの花には昼と夜はない。日中すぐに萎れてしまう。それでも朝があるだけいいと思ってしまう。
一日の終わり、夏バテ気味の私の視界の中で、萎れた花のかげから立ち上がってくる、アサガオの尖った蕾が新鮮なエンピツに見えることがある。エンピツの先が少しずつ伸びて、明日の朝を待ちかまえている。きょうの朝が終わるとすぐに、あしたの朝の準備をしている。アサガオのエンピツは研がれている。
私もエンピツを手にすることは多い。エンピツは4Bか5Bの、芯が太くて軟らかいものを使っている。とくに力を入れなくても書ける、紙の上に素直にイメージを滑らせていける、その軟らかさを好んでいる。だが今は、どんな軟らかいエンピツも落書きくらいしかできない。
筆箱の中の、エンピツの数を競い合った頃があった。ちびたエンピツのようなチンポの長さを比べあった頃のことだ。テストのマルやペケの数を競ったり、力こぶの大きさを比べたり、背丈や体重で勝負したり、ポケットの中のガラクタを自慢したりして、いろんなものを競い合っていた。競うことが遊びでもあった。小さな勝利の先には、小さな喜びと満足があった。
ときには、エンピツをサイコロのように転がした。六角形のエンピツの六つの面に、スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライと記して、単純な想いを託した。どちらが出ても、なかなか願いどおりには転ばないものだった。スキ、キライの先には何もなかった。何も無いから、ただいたずらにエンピツを転がしていたのだろう。
アサガオは明日の朝を迎えるため、毎日あたらしい蕾のエンピツを用意する。寝苦しい熱帯夜に、ひそかに幾本ものエンピツを転がしているのは誰か。そして新しい朝には、アサガオのエンピツは誰よりも早く、新しい花を描いてみせるだろう。
「2024 風のファミリー」